幸宏さんの死に想う

幸宏さんが亡くなったなあ。

ご存じかもですが、あの人は、お兄さんと一緒になって、いろんな人をつなぐハブのような役割を70年代初めごろは行ってたようで。

 もともとは彼のお兄さん・高橋信之。お金持ちの子弟で組まれたフィンガーズにいた人で、フィンガーズはあのブリジストンの御曹司の成毛滋さん、横浜の華僑の子で、子供のユーミンが追っかけしてたシー・ユー・チェンさんたちがいたバンド。彼らは個々でも影響力のあった人たちで、例えば成毛さんとシーユーさんは69年のウッドストックに参加した稀有な人で、成毛さんは帰国してからは日本のトップ・ロックギタリストとしてアマチュアに絶大な影響を与えてる。

 で、信之さん。慶応高校時代にフィンガーズでドラムを担当し、大学では影山民夫さんたちと伝説のイベント集団「風林火山」を運営、最先端のサブカルチャーを紹介していった人。なので当然、高橋家は信之さんの知己が常にうろうろしてると。その中には慶応の後輩・松本隆さんもいたり、民夫さんが出ていた「ヤング720」関係の人たちもいたり。やっぱりそんな中では、おそらく当時の日本で最先端の欧米の情報が集まってたんよな。

 有名な話で、高校生の幸宏さんと細野さんは、風林火山主催・68年夏の軽井沢でのダンスパーティの仕事で出会ってるんやけど、その時に幸宏さんたちがやってたのが、日本ではまだレコードが出てなかったはずのスライ&ザ・ファミリーストーンの曲で、それに興味持った細野さんからのアプローチだったと。ちなみにそのパーティ仕事に集まったバンドの中には、林立夫さん、鈴木茂さん、のちのバズの東郷さんたちもいたという、まあとんでもない集団で。

 そんな風に、お兄さんの関係で幸宏さんの周りには自然と凄い人たちが集まってたわけですが、彼らの音楽を仕事にまで高めたのは信之さん。大学卒業後も、プロデューサーとしてまずはCM業界に足を置き、自分の知己があるミュージシャンを次々に使っていく。有名なのはバズのケンメリ「愛と風のように」。あのニールヤングまるまるパクリのサウンドは、林立夫小原礼リズムセクションらしい。影山民夫さんの友達・加藤和彦さんもそんな流れの中で知り合い、それがミカバンドとつながっていったみたいで。

 ごちゃごちゃしたけど、要は、プロデューサー信之さんの大学人脈と、幸宏さんの友人人脈が自然に融合して、東京の音楽集団の一つができていったと。東京っ子の達郎さんがよく言う「山の手ぼっちゃんミュージシャン」集団ね。こう見てくると、高橋兄弟がティン・パン・アレイを作ったともいえるんよなあ。