番外編:メディアとしてのレコード


1975年の6月初め。京都にいた僕は、河原町の輸入盤屋さんで1枚のアルバムを買いました。980円でした。タイトルはBEST OF THE BEACH BOYS VOL.2 。その前に本屋さんでいろいろ立ち読みして、ティンパンアリーのツアーがあることを知り、チケットの入手方法(郵送だったと思う)を確認し、本はかわずに電話番号だけメモして、レコード屋さんに向かったのでした。

このアルバムは、今で言うワゴン・セールの棚に、ほかの沢山の60年代のアルバムとともにありました。遅れてきた60年代ロックファンだった僕には、その500枚くらいのアルバムのうち100枚くらいは宝物に見えました。だって、ジョンメイオールWITHクラプトンのアルバムや、PPMのオリジナルアルバム、ディランの初期ものが、全部1000円以下であったのですから。しかし・・・。お金がなかったので、たった一枚買うのに、その時は2時間くらい迷って、最後はビーチ・ボーイズのBESTが手元に2枚のこりました。で、これを選んだのです。長い間ほしかったDON'T WORRY BABYが入っていたから。

レコード屋さんを出たときの、夕方5時くらいの日差しを、よく覚えています。その店は河原町通りの真ん中あたり、そう蛸薬師通りあたりの路地にあったので、夏前の京都特有の「ム」っとくる空気が足元からきたし、横の中華料理屋の餃子のにおいもあって、いやなむせかえり方をしたのですが、空は真っ青でした。 「ビーチボーイズを手に入れるのにふさわしい天気や!」と、御機嫌でバス停に向かったのをよく覚えています。・・・手持ちのお金はもう、そのバス代しかなかったのでした。100円しか。

このレコードを聞いたのは、それから1ヶ月後のことです。というのは当時はまだ京都の下宿にはオーディオがなくて、そうやって買ったアルバムを夏休みに実家に持って帰って聴いたのです。7月の和歌山は、素晴らしい夏になります。そんな中で大音量でこのアルバムを聴いていると、幸せでした。実家はまだクーラーがなく、でも海からの風で十分涼しい環境が、この音楽をより気持ちよく感じさせてくれたのでした。 

…あれから26年。こんな風に、たった一枚のアルバムを大切に持って歩いたりすることが、すごく減っています。っていうか、なくなってますねもう今では。僕の場合それは、LPからCDにパッケージが代わった頃にそうなったのでした。今から思うと、そのくらい、つまり80年代の中ごろくらいから、僕らの音楽の扱いが変わったように思います。なにかより直接「音楽だけ」を売り買いするようになったと思う。

 LPレコードの時代は、ジャケットのアートワークや、クレジットの見易さから、このアルバム1枚に携わった人たちや周辺の文化がなんとなく感じられて、そこからグラフィックデザインに進んだ人も多かったし、ファッションに進んだ人も多かった。つまり、アルバムジャケットは一種の新しい動きを伝える大きなメディアでもあったのです。特に日本のロックの場合は、その仕事を通して出てきた才能がすごく多かったと思います。チャボの奥さんであるおおくぼ ひさこさんは、最も早くから日本のロックを切り取ってきた写真家だし、ミカバンドのジャケットワークを作ったWORKSHOP MU! は、商業デザインに50年代のアメリカンPOPグラフィックを導入した人たちだし、スタイリストという職業もこの辺から先鋭的に出てきたし。 

 60年代中ごろに、ディランが言った名言「いろんなことが同時に起こってる。」そのままに、70年代後半までの日本のフォークやロックシーンは、音楽以外のたくさんのことにも影響を与えながら広まっていきました。それはでも、あるときは周辺文化のクリエイティブたちからもらったものに影響されて自分たちも始めたことも、大いにあったということです。たとえば、インディアンの思想を広めた人たちはミュージシャンではなかったし、パンクが出てきて最初に反応したのはデザイナーだったのです。そう。ミュージシャンだけがある世代を代表していたわけではなく、彼らの横には優れて先覚的な人たちが多方面でがんばっていたのです。

 こういった、文化の連鎖というか横のつながりは、80年代中ごろに音楽がCDメディアになった頃から分断され専門化されていったように思います。その頃からですね、僕にとってロックがあまり響かなくなったのは。音楽が音楽のみ聞こえてくるようになって、ファッションや広義の文学からのメッセージは、それぞれのメディアで閉じられた世界で大きくなって行きだしたのです。そのことは、立花ハジメのようなデザイナーでもありミュージシャンでもあるといった柔らかな才能をオミットし、音楽が結果的にどんどん不自由な感じになって行ったことと関係があると思います。

 僕が75年に手に入れたビーチボーイズのアルバムは、ファクトリー・シールを開けるとぷーんと輸入盤のにおいがしました。ジャケットにはメンバーがサーフボードをみんなで持っています。で、音も国内発売のレコードより大きいのです。それらすべてのことから、僕等はアメリカのロックを考え、時代を考え、あこがれました。 LPの時代は、こんなにも豊かなメディアでもあったのです。

隣のニーちゃんのうた

 で。72年です。この年に僕は高校1年になりました。入試の合格発表の日に、ストーンズの「ハイドパーク・コンサート」がNHKのヤングミュージック・ショーであったので、合格を確認してすぐにそれを弟と2人で熱狂して見ていました。当時のストーンズは、ミックテイラーとキースの豪華ツインギター時代で、このハイドパークはそのコンビが初めて大きな会場でライヴをした日です。

 72年初冬には、ラジオでNヤングの「孤独の旅路」がガンガンなっていました。大ヒットです。深夜放送のフォークシンガーDJたちは、エレックレコードの古井戸・泉谷しげる や、RCサクセションを友達のいい曲を紹介するスタンスでかけていました。井上陽水もこのころにはもう何曲か出していました。 前回までに出てきたバンドや人は、もうこのころには若いもんの間では知らない人がいないくらいの有名人になっていました。 フォークの大ブームだったのです。このころ、そんな人たちから敬意を持って見られていたのがはっぴいえんどでした。彼らがこのころ出した「風街ろまん」は、静かに深くシーンに影響を及ばしていきます。例えば、大塚まさじさんは、後年「あのデビューアルバムを擦り切れるくらい聴いたし、彼らだけの大阪での初ライヴのときは、僕の知ってるミュージシャンはみんな見に来てたもんな。」と語っています。

 はっぴい は、当時の新しい音楽をどう録音するかという事に、初めて自覚的であった日本のバンドでもありました。数々の試行錯誤の中で培った彼らのレコーディングのノウハウは、フォーク・ミュージシャンのアルバムやライヴに彼らが参加する事でシーンに浸透していきます。逆に、細野晴臣・鈴木 茂は、彼らのアルバムでギャラをもらって暮らし、人脈をつくっていきます。スタジオ・ミュージシャンですね。

特に細野さんの「いい音楽なら誰でもいい」という姿勢が、意外な人とのコラボレーションをうんでいったり、新しい人を発掘したりしていく結果になったのが、印象的でした。例えば高田 渡。中川 イサト。彼らのバックで、素晴らしいベースプレイをしています。西岡恭蔵の「街ゆき村ゆき」というアルバムでは、プロデュースまでしています。 また、彼らのアマチュア時代の友達が、どんどんデビューして、それぞれ素晴らしい活動を始めた事も、彼ら自身のセンスの良さを表す結果になっていきました。例えば、ブレッド&バターのレコーディングは高橋幸宏と小原 礼が、バズのバックでも彼ら+後藤次利が出てきています。

 そんな、フォークを中心とする音楽がどんどんPOPS化して、ブームになったからこそわかる情報が入ってくると、ミュージシャンのつながりが見えてきます。関西フォークはURCレコードとのつながりが濃いとか、はちみつぱいは斎藤哲夫とかあがた森魚とかと友達とか、フラワー周辺は内田裕也人脈とか、はっぴい は前述の人たちとか・・・・。こういう事がわかりだしたのが72年でした。

 また、この大ブームは、春一番コンサートなどを急激に大きなイベントにしてしまいます。そして、よりプロフェッショナルな運営をスタッフにしいることになって行きます。このことで、コンサート・イベントの仕事が日本に生まれていきます。よく雑誌などで、地方のコンサートスケジュールを見ると、主催者名がバンド名のようなのがありましたもん。彼らは、一様にシロートだったのです。

 それと、とりあえずフォークやロックで人が入るという状況になれば、地方でも「自分たちのバンドで、やろうぜ。」という機運が高まっていきます。それがアマチュアコンサートの始まりです。当時はフォーク主体のフリーコンサートが多かったもんね。理由はカンタン。お金がかからないから。それと、当時の流行ってるフォークは、音楽的にとてもカンタンなものが多く、ちょっとギター弾けたら誰でも歌えたから、たっくさんのバンドが急に出来ていました。 誰でもその気になれば出来た音楽として広まった。それが72年でした。

 ケメとかピピ&コットとかが出てくるころには、僕はもう、ちょっと違うやろという感じでした。大衆化はいいのですが、勇気をもってそれまでのメッセージ主体・言葉優先のフォークを、音楽主体・日常の言葉に戻した拓郎や加川良やガロや高田渡とは、まったく違うただの口当たりのいいカンタンな音楽で出てきた奴らのほうが売れていることが、凄くいやでした。 結局、71年以前に登場した人たちを僕は応援するようになっていきました。っていうか、そのころアメリカがまた面白くなってきていたので、そっちを注意してたのです。

 72年の初めか、71年の終わりかは忘れたのですが、「アメリカで最近50年代のロックンロールのオリジネイター達のショウが盛り上がっている。」という話が何かの雑誌で取り上げられていました。チャックベリーやリトルリチャードが盛り上がってる、と。 これはほんの始まりで、ここから始まったロックンロール・リバイバルが、その後1974年あたりまでのアメリカ・ロック・シーンの大きな流れになっていき、ついにはビーチボーイズリバイバル大ブームが起こるところまでの動きになるのですが、その当時はまだ一過性のものだという風にみんなが思っていました。

 また、ニュー・ソウルががんがんかかりだしたのも、この72年です。初めてオージェイズの「裏切り者のテーマ」をラジオで聞いたとき、僕は「こんな洗練されて、これソウルなんか?」と思いました。ところがフィラデルフィアからはそんなのばっかりで、全部大ヒットしています。それとカーティス・メイフィールド、マービンゲイ。「これって、本当にソウルの流れから出てきた音楽かぁ?」って思いました。それまではオーティス・アレサ・サム&デイブなんかのR&Bとモータウンやったからね。ジャクソン5はちょと違ったけど。

 日本ではまずロックンロールが受け入れられました。春先から、やたらエディ・コクランジーン・ヴィンセントの50年代オリジナルがラジオでなり始めました。この中での極めつけは、やっぱりエルヴィス。このブームで、僕はエルヴィスのかっこよさを知りました。ロックンロールがラジオからなるときの気持ちよさを、僕はエルヴィスから知りました。このあと、ルーカス製作の「アメリカングラフィティ」で、このロックン・ロールブームは本物になっていきます。ってなタイミングの時に出てきたのがキャロルでした。

 まず初めて聴いたのが、12月の「ビバ・カメ・ショー」という亀淵さんの番組でのスタジオ・ライヴ。まだデビュー前でした。これで僕と弟はぶっ飛びました。「ルイジアナ」なんて、1回しか聞いてないのにもう歌えた。長さも2分くらいのロック。本当にかっこよかった!雑誌などで見た写真は、リーゼントに皮のジャンプスーツ。50年代ロッカーです。センセーショナルでした。ウタ、うまかった、エーチャン!次の日学校に行くと、もうこの話で持ちきり。・・・だから、73年に本格的にデビューしたキャロルは、すぐにスターでした。

 個人的に、72年にはもうひとつ気になるバンドが出てきました。サディスティック・ミカ・バンドグラムロックのような格好でバカテクなロックンロールをぶちかました1STがこの年に出ています。モチロン買って、よく聴きました。でも加藤和彦のウタが弱くてね。キャロルには負けたって感じ。ああ、それと桑名正博のファニー・カンパニー。これは73年かな?・・・とにかく日本のロックに限って言うなら、この年から本当に面白くなり始めた。パワーと音楽がなくなっていったフォークと比べると。