隣のニーちゃんのうた

 で。72年です。この年に僕は高校1年になりました。入試の合格発表の日に、ストーンズの「ハイドパーク・コンサート」がNHKのヤングミュージック・ショーであったので、合格を確認してすぐにそれを弟と2人で熱狂して見ていました。当時のストーンズは、ミックテイラーとキースの豪華ツインギター時代で、このハイドパークはそのコンビが初めて大きな会場でライヴをした日です。

 72年初冬には、ラジオでNヤングの「孤独の旅路」がガンガンなっていました。大ヒットです。深夜放送のフォークシンガーDJたちは、エレックレコードの古井戸・泉谷しげる や、RCサクセションを友達のいい曲を紹介するスタンスでかけていました。井上陽水もこのころにはもう何曲か出していました。 前回までに出てきたバンドや人は、もうこのころには若いもんの間では知らない人がいないくらいの有名人になっていました。 フォークの大ブームだったのです。このころ、そんな人たちから敬意を持って見られていたのがはっぴいえんどでした。彼らがこのころ出した「風街ろまん」は、静かに深くシーンに影響を及ばしていきます。例えば、大塚まさじさんは、後年「あのデビューアルバムを擦り切れるくらい聴いたし、彼らだけの大阪での初ライヴのときは、僕の知ってるミュージシャンはみんな見に来てたもんな。」と語っています。

 はっぴい は、当時の新しい音楽をどう録音するかという事に、初めて自覚的であった日本のバンドでもありました。数々の試行錯誤の中で培った彼らのレコーディングのノウハウは、フォーク・ミュージシャンのアルバムやライヴに彼らが参加する事でシーンに浸透していきます。逆に、細野晴臣・鈴木 茂は、彼らのアルバムでギャラをもらって暮らし、人脈をつくっていきます。スタジオ・ミュージシャンですね。

特に細野さんの「いい音楽なら誰でもいい」という姿勢が、意外な人とのコラボレーションをうんでいったり、新しい人を発掘したりしていく結果になったのが、印象的でした。例えば高田 渡。中川 イサト。彼らのバックで、素晴らしいベースプレイをしています。西岡恭蔵の「街ゆき村ゆき」というアルバムでは、プロデュースまでしています。 また、彼らのアマチュア時代の友達が、どんどんデビューして、それぞれ素晴らしい活動を始めた事も、彼ら自身のセンスの良さを表す結果になっていきました。例えば、ブレッド&バターのレコーディングは高橋幸宏と小原 礼が、バズのバックでも彼ら+後藤次利が出てきています。

 そんな、フォークを中心とする音楽がどんどんPOPS化して、ブームになったからこそわかる情報が入ってくると、ミュージシャンのつながりが見えてきます。関西フォークはURCレコードとのつながりが濃いとか、はちみつぱいは斎藤哲夫とかあがた森魚とかと友達とか、フラワー周辺は内田裕也人脈とか、はっぴい は前述の人たちとか・・・・。こういう事がわかりだしたのが72年でした。

 また、この大ブームは、春一番コンサートなどを急激に大きなイベントにしてしまいます。そして、よりプロフェッショナルな運営をスタッフにしいることになって行きます。このことで、コンサート・イベントの仕事が日本に生まれていきます。よく雑誌などで、地方のコンサートスケジュールを見ると、主催者名がバンド名のようなのがありましたもん。彼らは、一様にシロートだったのです。

 それと、とりあえずフォークやロックで人が入るという状況になれば、地方でも「自分たちのバンドで、やろうぜ。」という機運が高まっていきます。それがアマチュアコンサートの始まりです。当時はフォーク主体のフリーコンサートが多かったもんね。理由はカンタン。お金がかからないから。それと、当時の流行ってるフォークは、音楽的にとてもカンタンなものが多く、ちょっとギター弾けたら誰でも歌えたから、たっくさんのバンドが急に出来ていました。 誰でもその気になれば出来た音楽として広まった。それが72年でした。

 ケメとかピピ&コットとかが出てくるころには、僕はもう、ちょっと違うやろという感じでした。大衆化はいいのですが、勇気をもってそれまでのメッセージ主体・言葉優先のフォークを、音楽主体・日常の言葉に戻した拓郎や加川良やガロや高田渡とは、まったく違うただの口当たりのいいカンタンな音楽で出てきた奴らのほうが売れていることが、凄くいやでした。 結局、71年以前に登場した人たちを僕は応援するようになっていきました。っていうか、そのころアメリカがまた面白くなってきていたので、そっちを注意してたのです。

 72年の初めか、71年の終わりかは忘れたのですが、「アメリカで最近50年代のロックンロールのオリジネイター達のショウが盛り上がっている。」という話が何かの雑誌で取り上げられていました。チャックベリーやリトルリチャードが盛り上がってる、と。 これはほんの始まりで、ここから始まったロックンロール・リバイバルが、その後1974年あたりまでのアメリカ・ロック・シーンの大きな流れになっていき、ついにはビーチボーイズリバイバル大ブームが起こるところまでの動きになるのですが、その当時はまだ一過性のものだという風にみんなが思っていました。

 また、ニュー・ソウルががんがんかかりだしたのも、この72年です。初めてオージェイズの「裏切り者のテーマ」をラジオで聞いたとき、僕は「こんな洗練されて、これソウルなんか?」と思いました。ところがフィラデルフィアからはそんなのばっかりで、全部大ヒットしています。それとカーティス・メイフィールド、マービンゲイ。「これって、本当にソウルの流れから出てきた音楽かぁ?」って思いました。それまではオーティス・アレサ・サム&デイブなんかのR&Bとモータウンやったからね。ジャクソン5はちょと違ったけど。

 日本ではまずロックンロールが受け入れられました。春先から、やたらエディ・コクランジーン・ヴィンセントの50年代オリジナルがラジオでなり始めました。この中での極めつけは、やっぱりエルヴィス。このブームで、僕はエルヴィスのかっこよさを知りました。ロックンロールがラジオからなるときの気持ちよさを、僕はエルヴィスから知りました。このあと、ルーカス製作の「アメリカングラフィティ」で、このロックン・ロールブームは本物になっていきます。ってなタイミングの時に出てきたのがキャロルでした。

 まず初めて聴いたのが、12月の「ビバ・カメ・ショー」という亀淵さんの番組でのスタジオ・ライヴ。まだデビュー前でした。これで僕と弟はぶっ飛びました。「ルイジアナ」なんて、1回しか聞いてないのにもう歌えた。長さも2分くらいのロック。本当にかっこよかった!雑誌などで見た写真は、リーゼントに皮のジャンプスーツ。50年代ロッカーです。センセーショナルでした。ウタ、うまかった、エーチャン!次の日学校に行くと、もうこの話で持ちきり。・・・だから、73年に本格的にデビューしたキャロルは、すぐにスターでした。

 個人的に、72年にはもうひとつ気になるバンドが出てきました。サディスティック・ミカ・バンドグラムロックのような格好でバカテクなロックンロールをぶちかました1STがこの年に出ています。モチロン買って、よく聴きました。でも加藤和彦のウタが弱くてね。キャロルには負けたって感じ。ああ、それと桑名正博のファニー・カンパニー。これは73年かな?・・・とにかく日本のロックに限って言うなら、この年から本当に面白くなり始めた。パワーと音楽がなくなっていったフォークと比べると。