番外編:雑誌のつまらなさ

70’Sにロックに反応した世代と80’Sにロックに反応した世代では、音楽へのアプローチの仕方がぜんぜん違うように思います。それは、日本のロックがビジネスになる前の、正直なメディアであったことを知っている世代と、そうじゃない世代の違いからくるものです。僕らは、それこそ毎回違う歌い方やアドリブのあったシンガー・プレイヤーを見て育ってきましたから、そんなもんやと思ってるのですが、どうも80’S以降のプレイヤーたちはそうじゃないですね。自由に音楽を楽しむことが、難しいみたいです。はっきり言うと、手本がないと音を出せない人が多いみたい。だから、以前にBAHOがやってたような「宮川左近ショー」の三味線の人とイシヤン・CHARがバトルするみたいな発想が少ないし、できない。 正直、かわいそうだなあと思うのです。

 それが面白いことに、90’Sになってくるとまた違って、70’Sに近い発想で音楽やってる人、多いですね。
しなやかにジャンルや時代を越えてる人、多いもんね。僕が最初にそう思ったのはUAのときかな? で、今やウタダヒカルあたりにまでそれを感じるし。別のところでも書いた山崎まさよしやスガ シカオは、その柔軟さと高い音楽性において90’S世代の代表的存在に思うのですが。こないだもナニワ・サリバン・ショーというデディケイテッド・トゥ・キヨシローの企画ライヴでのヤマザキ君は、あの名曲「トランジスタ・ラジオ」を、まるでラヴィン・スプーンフルの「デイ・ドリーム」のように歌ってて、ほんと感心したんですけど。ラヴィン・スプーンフル、知ってます? 60年代中期にNYで活躍したラグやフォークやロックをとても趣味のいいブレンドでPOPにもってって人気を博したバンドです。 

 だから、今のシーンを見てみると、面白い人たちが沢山いるのです、新旧取り混ぜて。それも、そうとうかつての素晴らしい音楽を自分なりに消化してる人たちが。問題は、そのことをわかってる人が、マスメディアに少ないことなんですね。あれちゃうかな、今やファンのほうが、アーティストのバックグラウンドにある音楽のこと、よく知ってるんじゃないですか? 特に、紙媒体の記者や評論家の不勉強は、ひどいものがあると思うな。 僕もピンキーさんにヤマザキ君の音楽聞かしてもらってから、結構気になるので、本屋で雑誌読みますけど、「これはないやろ!」と思う浅い知識のレコ評の、なんと多いことか。こんな記事でお金もらえる気楽なビジネスやってると、せっかく才能が充実してきた日本のシーンも、こいつらのせいでツブれるやろうなと思うもん。

 たとえば、サンディー&ザ・サンセッツが80年代初頭にオーストラリアで大ヒットしたときに、地元の記者の多くは、久保田真琴さんの作った音にニューオーリンズ・ビートの影響を見つけ、ルーツ・ミュージックについての質問を集中してぶつけてきたといいます。そんな見識を持つ「音楽ライター」が、今の日本に少ないのはなぜかな。

 ロックを浴びるほど聴いてきて、あんな雑誌しか作れないロッキン・オン・ジャパンのスタッフ。 反省しろ。

72年のムード

72年ごろの、新しい音楽の情報は、「ニュー・ミュージック・マガジン」と「新譜ジャーナル」と「GUTS」という雑誌でした。ところが、和歌山の本屋さんには他の2冊は割とどこでも売ってても、「ニュー・ミュージック・マガジン」は宮井の本店に毎月5冊しかなかったのです。だから、買えたらラッキーってなもんで。JAZZの雑誌でもそんな様子だったとは、JAZZ好きな友人の話です。 まあ、貧弱なものでした。

 だから余計に、例のレコード屋さんのお姉さんからの情報とかラジオの情報が貴重でした。このころ、TVでライヴの放送があるなんてのも、雑誌で探したもんな。TV番組雑誌なんてないし、あっても興味がないから。ところが、72年の後半あたりから、ラジオは音楽主体ではなくなっていきます。きっかけはお笑いのタレントや、音楽知識のなさを話術で補ったフォーク・ミュージシャンだったと思います。だから、僕のようなラジオから情報をもらってたやつらは、よりコアなラジオ番組を探して、朝5時まで起きてたり、FEN(米軍極東放送)の電波を求めて810MHZを何とか捉えようと必死でダイアルを回したりしてました。 音楽系の番組がお笑い系に変わっていくので、寂しい思いでそれらを聴いていました。

 でも面白いもので、今度はTVがロックやフォークの音楽番組を始めたのです。単発的なものが多かったけど、NHKのヤング・ミュージック・ショーやオーディション番組「ザ・チャレンジ」は面白かったな。たぶんこの「ザ・チャレンジ」で、僕はメディスンショー(泉たまの何人かがいた)を見ているのです。スティーリー・ダンの1STから渋い曲をプレイしてました。それと「センチメンタル・シティ・ロマンス」も。「ふきのとう」はここからデビューしたのでした。

 まあ、全国的には平均的な情報量であったと思います。当時の和歌山は。でも、決定的に違ったのは、大学がひとつしかないため、京都や広島・金沢・福岡・横浜・神戸・大阪のような、大学生からの文化の情報発信がないことでした。だから、新しい動きはラジオやTVでブームになっている状態=もう半分終わっている状態で、ブームの必然が分からなくなっている状態 でしか入ってこなかったということでした。それは今もそんなに変わらないと思いますが。 

 ロック全体の大きな動きとして、アメリカのオールディーズ・ブームがすごいものになっていくさまは、「ニュー・ミュージック・マガジン」で感じてました。モチロン手に入るわけがないのですが、大阪や東京ではこのころにアメリカで発売された「アトランティックレコード」の50年代ものベストとかのオールディーズものが輸入版で売れていきます。それに呼応する形で、どんどんロックそのものが商品になり、面白くなくなっていきました。イギリスではそんな事なかったのですが。だから、このころは71年までのアルバムをよく聴いてたと思う。それか、50年代のロックンロールをFMラジオで聴いたり、イギリスのバンド(イエスピンクフロイドユーライア・ヒープら)を聴いたり。

 アメリカがこういう状況だったので、キャロルやユーヤさんたちのロックや、サディスティック・ミカバンドやファニ・カンが、もう一気に大好きになったのでした。 この72年後半にはギターを弾いて歌ってましたから、家ではNヤングやジェームステイラーからプログレからロックからオヤジのJAZZから、何から何まで聞きまくりの日々だったのですが、72年の新譜で印象に残っているアメリカンロックアルバムって、Nヤングの「ハ−ヴェスト」だけ、ちゃうかな。
ああ、サンタナキャラバンサライとオールマンのフィルモアがあったか。でも、そんなもんです、きっと。 この3枚に共通していること。それは、長い曲が目立つ事。これが印象に残るってのは、ロックを室内音楽として聞いてたってことで、当時のロックはそうなってしまっていました。

 でも、この時期から74年にかけて、オールディーズを沢山聞けたことは、僕にとってはホント幸運でした。「そうか。すべてはこの2分くらいから始まったんか。」ってのがよーくわかったから。あの時期にオリジナル・ロックンロールを聞いていなかったら、僕はもっと違った音楽を好きになっていたと思います。いや、もう音楽を聴いていなかったかも。それくらい衝撃的なものが、やっぱりオリジナルにはあったし、今でもあると思う。

 だから。余計に当時のフォークはどうでも良くなっていきました。モチロン、そんな中でも好きなものはあったのですが、どんどん少なくなっていきました。ただ。73年に入ったあたりから、微妙に面白い大阪の音楽が出てきました。きっかけは加川良の「親愛なるQに捧ぐ」というアルバムでした。このアルバムは、URCレコードでは初のオオサカのスタジオ「サウンド・クリエーション」での録音で、ミュージシャンもオオサカの人たちが多かった。今から思えば、オオサカのミュージシャンが地に足をつけた活動をし始めたのがこのころからなのですが、このアルバムで聞かれる微妙な間が、絶対に関東製作では出ないものだったことが、ずっと引っかかっていきました。

 ・・・だいたい、僕個人の72年のロックやフォークの受け止め方はこんな感じでした。ただ、このころのPOPSやFOLKは、なにかムードとして僕らのウタであるという意識はみんなが持っていて、それはもうどんなに音楽から遠そうなやつでも、何か1曲くらいはこれらの中で好きな曲があったし、特に今とゼンゼン違うのが女の子のロックへの意識がもっと高かったことでしょうね。フツーのコでも、ストーンズのシングル1枚くらいは持ってたし、ちょっと音楽好きなコになると、オールマンのライヴとかドアーズとかアルバムで持っていた。実は、そんなコ達が今、もうお母さんになってるので、もうちょっと日本のロックも面白くなるはずなんやけどなあ。