75年 京都2

 75年をもう少し続けます。6月から夏までにその後の日本のPOPを大きく変えていくアルバムが数枚出ました。 まずはシュガーベイブ。これは、レコード紹介のところにも書いているように、1曲目のSHOWが始まったところからのコードや歌が、それまでの日本の音楽にはなかったサウンドでした。特にコーラスと、ソウルタッチのダウンタウン。本当にガーンと来ました。僕だけがガーンときたわけではなくて、いっしょにバンドをやっていたメンバー全員がショックを受けていましたから、聴く機さえあればみんながびっくりしていたと思う。

次に、これはぴんときた人は少なかったのですが、細野晴臣のトロピカル・ダンディー。僕はこの頃、ライト・ミュージックという雑誌の熱心な読者で、その中にこのアルバムの音楽構成図みたいなものを細野さん自らが紹介していて、それを見て知らないジャンル・人がたくさんあったことにもショックを受けました。アルバムのすばらしさは、これもレコード紹介に書いています。

後は、ユーミンのコバルトアワー。ユーミンはその前のミスリムから本気で聞いていたのですが、このアルバムのティンパンアレイの演奏は、もう一段グレードが上がっています。より緊密になったアンサンブルなんです。それと、ユーミンの作品がちょっとソウルよりなものを含むようになったことで、今までのものよりアップ・トゥ・デイトな感じになってきたのです。

この前に地方のバンドのレコードについてちょっと触れましたが、やっぱり70年代からレコーディングのキャリアを持っているティンパン系のミュージシャンは、よりスタジオについて知っていたこともあり、この3枚はすばらしいものになりました。 重要なのは、これらのアルバムが当時の楽器をプレイしていた人たちに喜んで聴かれたことなのです。それは、アメリカのスタジオ・ミュージシャンたちが自分たちでアルバムを作って動き出し、クロスオーバーとかフュージョンなどと呼ばれはじめた頃にリンクします。それと、これらの音楽を支持した人たちが、後の日本のロックを変えていく人たちだったことも大きいな。 例えば、細野さんとこの時期一緒によく音楽談義をしていた田中 唯士さんは、細野さんの柔軟な音楽への姿勢に動かされ、音楽活動を再開します。そして76年にパンクが出てきたときに影響され、S-KENと名乗り始め、東京ロッカーズのリーダー的存在になっていったり、シュガー周辺では長門芳郎さんという、最近ではウッドストック周辺のアーティストのアルバムを製作している音楽マニアが有名になっていくのです。

でも。なんと言ってもユーミンです。

ユーミンは73年にデビュー以来、非常に作家性のつよい活動をしているように見えました。それはやはり、何よりも曲と歌詞があの当時の日本では斬新だったし、作品をレコーディングするのが日本きっての新しさのあるミュージシャンであったことが、とても大きいと思います。

デビューアルバム「ひこうき雲」は、そのタイトル曲とその他数曲はリアルタイムで聞きました。ただその時点では、こう、陰影のある作風というか、ヨーロッパっぽい曲を作る人というのと、歌が下手ということが残っただけでした。僕が関心を持ったのは、74年の「ミスリム」からです。ここで彼女は、時代を読んだアメリカンPOPな感じのサウンドと曲を出してきました。これを聞いたときに、ファーストのブリティッシュ味と考え合わせて、なんて懐の深い作家やろ、と感動したのです。KEYになるのは、この人はロックを、それも60年代のロックを空気のように吸って音楽を始めたということです。僕がそれを最初に感じたのが、この人のキャロル好き。それだけではなく、いっぱい歌詞の中にロックで育ったことが出てくるので、皆さんもよくご存知だと思いますが。

この2NDアルバム「ミスリム」は、静かに、しかし深く広がりました。それは、主に今まで日本のフォークに共鳴できなかったけどPOPSが好きな女の子達に広まりました。ぼくもこのアルバムを借りたのは、そんな子からだったし。「すっごいええから、聞いてみ」といわれました。彼女たちがこんなに熱を持って語るアーティストは、初めてでした。そういう、新しい層をユーミンは開拓したのです。なぜかミスリム発表後に、ユーミンは和歌山に来てライヴをしています。その時はその子達が行ったのですが、「おっしゃれーな子が、多かった!」といってました。それと「私らだけが知ってるかと思ってたのに、意外にも満席。」とのこと。

この2つのことが、重要なのでした。つまり、当初ユーミンは「国産のブランドもの」として、本当の中流以上の女の子に広まっていったって事。それと、口コミでアルバムのよさが広まったこと。これが、75年にでた「コバルト・アワー」での新しいソウルよりのサウンドとそれまでのアルバム中最高の質の曲で、今度は中流以上の(意識の)男の子も巻き込んだセールスを残します。更にユーミンは、バンバンに書いた「いちご白書」で、作家としての知名度を飛躍的に広めます。こんな風に、いくつかのことが重なって、その年の暮れにはもう、ユーミンは大ブームだったのです。

前回、ユーミンの大ブレイクがその後のシーンを変えて行ったと書きました。それは、上にも書いたように、まず今までどちらかというと音楽よりも洋服、で、そのプライドからか日本の歌なんて聴かなかった人たちが、ユーミンを見つけたことで音楽を買い始めた事。彼らは気持ちいいサウンドと都市生活を歌う歌詞をよろこんだのでした。次に、バンバンでユーミンを知った大衆ラインは、その歌詞世界のハイソ感にあこがれを感じたのです。たとえば「駅」を「ステーション」といってしまっても全然違和感が無い人なんて、それまでのアーティストにはいなかった。逆にビール工場を歌詞に出しても、まったく新しい映像が出てくるその感覚も新鮮でした。

何時の時代でも、オリジネイターは、真に独創的です。ただ、その後に出てくるフォロワーの質によって、シーン全体の質が決まります。
次回はその、雨後のたけのこ状態の「ニューミュージック」について。