76年 カネの匂い

76年といえば、第二次オイルショック。それと、記憶が正しければ、田中角栄ロッキード事件からの逮捕。これらの事件で、73年のオイルショックアメリカのウォーターゲイトからの、経済の停滞・政治家への不信がより強くなり、ただでさえ連帯感が薄まっていた青年から大人達は、この76年あたりから本格的に「世代よりも個人」をいろんな面で志向して行くことになります。

このころから喧伝され始めた言葉に「ニューミュージック」というものがありましたが、実態は非常にあいまいな、あえて定義づけするならば、やかましいロック以外の日本のPOPすべてをさすものでした。僕はこの言葉が大嫌いでした。なにがニューかわからんところがまず胡散臭い。また、ニューミュージックの・・・と呼ばれるやつらのほとんどが、僕の嫌いな音楽を知らないミュージシャン達だったのにも起因しています。でも、世間ではやっと若い奴等の音楽を総称するのに便利な言葉が出てきた、とばかりに、特に中年の司会者達がこの言葉を連呼していました。

本当に力のあるアーティストは、でも、がんがん出てきました。今から思うと、この76年も日本のPOPにとっては面白い年だったのです。それは、達郎さんがシュガーベイブを解散してソロを出したり、センチメンタル・シティ・ロマンスが素晴らしい2NDアルバムをだしたり、サウスが解散して新しい動きが始まったり、CHARがデビューしたり、他にもソーバッド・レヴューの正式デビューや、バックス・バニーのデビュー、それとオフコースのその後の路線がこのアルバムから決まった「ジャンクション」のリリース、高中正義のソロアルバム「セイシェルズ」の素晴らしさ。今、何も見ないでぱっと思い出しただけでもこれらのアルバムやアーティストの活躍がありました。 そう。この年は、日本のロックに新しいものをもたらした人たちが、更に次のステップに進んだ年だったのです。

僕はこの年は本当に良く日本のアーティストを聞きました。それは、大学のサークルに後輩がどっと入ってきて、彼らの好きなアーティストがほとんど日本のものだったことが大きいな。それくらい「ニューミュージック」は大衆化していました。それと、アメリカやイギリスのロックのつまらなさでしょう。当時の先覚的な人たちは、もう誰もロックなんて聴いてなかった。ボブ・マーレーとかソウル・ブルーズや、カリブの音楽やサルサにいってました。僕もこの年の秋から、そんな感じになっていたし。でも、そんな耳で聞いても、前述の人たちは面白かったのです。それにくわえて、関西のシーンの、相変わらずの面白さ。この年は憂歌団が全国区になっていったし、マッスン(増田俊郎)のバンドもええ感じだったし、スターキング・デリシャスもライヴハウスではもはや貫禄だったし。

75年の後半に出たボブマーリーの LIVE!は、日本のレゲエ定着に非常に大きな足跡を残しています。このアルバムの広がりかたは、独特でした。まず輸入盤屋で手に入れた人が、すっごいショックを受けて、友人に広めていったのです。モチロン少しの宣伝はありました。特にこの中の1曲がクラプトンに取り上げられていたので、そんな宣伝があったのです。僕はこのアルバムの正当な評価が遅れたのはその為だと思ってますが。とにかくこのアルバムは、76年に入ってから、かつてロックが好きだった人たちに熱狂的に受け入れられていきます。しかも、口コミで静かに・長く広まっていった。久しぶりに聴く戦う音楽だったから、最初は音楽の持つ強さにショックを受けるのですが、慣れてくると最高のソウルが持っていたグルーヴと同じ感じがボブの音楽にあることがわかりました。

レゲエは、最初ポールサイモンの72年春のソロアルバムが紹介された時期に、日本に紹介されていました.。その頃は、ジミー・クリフの「ハーダー・ゼイ・カム」が話題になっていて、世界的にはこの頃アイランドレコードからボブマーリーが「キャッチ・ア・ファイア」を出して、レゲエが広まって行きました。それが、74年のクラプトンの「461オーシャン・ブールバード」の中で「アイショット・ザ・シェリフ」が取り上げられたことで、ボブマーリーが本格的に世界に認知されていきます。でも、一般的にはレゲエというよりボブマーリーが知られていった感が強いな、まだこの頃は。ミュージシャンの間では、しかし、違ったのです。レゲエはとても微妙なグルーヴを持っていたので、その面白さに飛びついたミュージシャンは多かったのです。特に、リー・ペリーの音処理<ダヴ>の魅力は、その空間処理によってその後のPOPを変えてしまいます。

 ここで遠回りしてでもレゲエの話をしているのは、この音楽が持つ暴力性が後にパンクと結びついたり、もっとフツーのPOPにまで影響を与えていったからです。

 ふう。今回は盛りだくさんでしょ? 76年という年は、体験していた頃はわからなかったのですが、実はシーンの水面下でいろんな事が起こっていた年だったのです。一般的には、この年はパンクの生まれた年として言われることも多いですもんね。 そう。ピストルズ勝手にしやがれ!」の登場です。最初僕はこのアルバムを聴いた時に、何の情報もなく聴きましたから、「でた、ロックンロール!」と思いました。でもそのうち見えてきた彼らの環境がとても面白そうだったので、「ちょっといい感じになってきたな、イギリスも。」と思っていました。

まだ、76年の日本ではそんなもんだったのです。

 それより、74年くらいからのクロスオーバー・ブーム。これがすごかった。バックミュージシャンでアルバムを買う傾向は、73年くらいから日本でもあったのですが、76年くらいになると特にLAやNYのスタジオメンはみんなスターでした、日本では。それで面白いのは今までさだまさしとかを聴いていた奴が急にその類の音楽を聞き出したのです。なんでかなあとそいつに聞いてみると「いやあ、歌が無いやろ?だから邪魔にならん。」とのこと。確かに。この答えで、僕はフージョンブームが何なのか、割と早くに気づくことが出来ました。モチロンすごいプレイはあるんやけど、音楽全体はスムースに流れるBGMとして買われていっていました。それはスタッフなんかでもそう。楽器のプレイやアレンジをやりたいものにとっては、とても勉強になる音楽であったのですが、他方でフツーの人がBGMで買っていくアルバムとしてスタッフのアルバムはあったのです。

 ここまで書いてきて、今回はいつにも増してまとまりが無いと思っています。これは76年という年の日本のPOPがそんな感じだったのです。冒頭にもふれた「ニューミュージック」。味噌もくそも一緒になった状態で乱造気味にアルバムが作られ、売られていきました。 そう。ニューミュージックは金になることがわかってきたのです。なぜ金になるのか。これは、コンサート・ツアーをガンガンこなしてファンを増やしているからです。その点では、彼らは偉いのです。例えば、この頃のアリスは、年に300本のライヴをやっていたといいます。その上ラジオのパーソナリティ。むちゃくちゃハードです。でもそうやって数年を費やして、ついにアルバムが売れるアーティストになった。オフコースもそう。僕はこの2組については、悪く言いたくない。音楽性がどうのこうのの前に、とにかく彼らは人並みはずれた努力をして、自分の音楽を売ったのです。やっぱ、偉いよね。 それと谷村さんなんかは、やっぱり歌の番組に今でも出てくる。ボーカリストとして。
 
 じゃあ誰が偉くないのか。先達が切り開いた「新しい音楽」を充実させる為のさまざまな基盤=PAシステム・他者への作品提供・コンサートでのプロモーション・アルバム主体の作品提示=を、いとも簡単に金だけ出して真似る奴等が、この頃から出てきたのです。一番分かりやすかったのが、大手レコード会社のコンテストが、この頃から急に大規模になってきたことでした。それと、看板アーティストを抱える事務所が、そのお金でミュージシャンをスカウトし始めます。事務所のスタッフ達は初心=看板アーティストが無名だった頃に彼らの歌を聴いて「ついていこう!」とスタッフになったこと=など、すっかり忘れて、目の前に大金が出てくる事を夢見る、ただのばくち打ちになっていきます。この2つの「モンキー・システム」が、本来は新しい音楽だったニューミュージックを、ふぬけた小さいhappyしか歌えない音楽にしていくのです。

 76年の日本のロックは、なかなか通好みのミュージシャン達が脚光を浴びた年でもありました。筆頭は、ミッキー吉野。彼は15歳でゴールデンカップスに在籍し、バンドが解散後きっちり音楽を勉強するためにアメリカ・バークリー音楽院に単身渡って、キーボードをもう一度勉強してきます。彼がバークリーにいたのは72年から74年まで。僕はカップス時代の彼の腕前は分かりませんが、とんでもなく上手くなって、アメリカの友人達も沢山作って日本に帰ってきたようです。で、しばらくは自身のバンドでいろんな人のバックを務めていたのですが、その中の一人にタケカワ・ユキヒデがいたのでした。タケカワユキヒデの75年のソロアルバムを聴いたことがありますか? これが、ミッキーのグループでのサポートで、そのサウンドのホンモノぶりには、驚いたものです。このセッションのメンバー全員が、ゴダイゴと名乗るようになって行きます。ゴダイゴ、特にミッキーとギターの浅野さんは、百戦錬磨のミュージシャンだけあって、「ロックバンドでちゃんと仕事として食べて行く」ことを戦略的に実践して行ったおそらく初めての人たちでしょう。 たとえば「ガンダーラ」の大ヒットで得たお金を、自分のスタジオ建設につぎ込んで、よりいい環境で仕事をすることをバンドぐるみで考えたのです。タケカワユキヒデが調子こきだす前のゴダイゴは、確かなミュージシャンシップと上質のアルバムをだす、1級のロックバンドでした。はじめからインターナショナルを狙った、目的のはっきりしたプロ集団でした。

 次はCHAR。スモーキー・メディスン時代からのギターの評判と、その年齢(この当時20歳)が「天才」といううわさになっていた彼のソロアルバムは、もう1曲目からまさに「今の」シーンの音でした。彼はエレックレコード関係のスタジオミュージシャンをやっていて、そのころは高校生。ただ、僕がいいなあと思うのは、ミッキーなんかと多分おんなじ思考だったと思うのです。つまり、「ロックで食べて行く」ってこと。そのためにはどうしたらいいのか、ってのを、彼も真剣に考えていたと思います。それは何より、今にいたる彼の足跡を見たらわかりますよね。妥協せず・世界を相手に・自分の音楽をクリエイトする。 最近では、世界の第一線プレイヤーともプレイしている彼は、やはり凄い。

関西では、ソーバッド・レビュー。特に石田長生さん。彼のギターをまともに録音した初めてのアルバムは、サウス・トゥ・サウスのライヴでの「ジョージア・・・」と「ラヴ・ミー・テンダー」だと思います。もちろんそれ以前にも録音物は有りますが、なんかエンジニアリング側の責任でしょぼくなってるものばかり。この2曲での彼のギターは、鳥肌が立ちます。歌うのです、とにかく。それも、誰の間でもない、彼だけの世界です。このテイクで、まずギタリストとして全国区になった彼は、続くソーバッドのファーストでアレンジャーとしても凄いところを披露します。このアルバムの発表当初は、あまりにもブラックテイストが強くって、時々ちょっと今日は聴けんなあって日があったのですが、2000年現在聴いてみると、こんなおもろいアルバムはない。それは、特に石田長生さんのなかで発酵していただろうJAZZとSOULとFUNKが、あんまり磨かれないままサウンドになっているから。それに、不思議に古さを感じないのは、録音当初のメンバー全員がアメリカ帰国直後だったため、現地のブラックミュージックの感覚が随所にあるからでしょう。

こんな風に、まあいえばベテラン達も非常に面白い活動をし、新しい人たちも新鮮なセンスで登場した、そんな年。だから、シーンのバンドの層自体は、数年前とは比べられないくらいに厚くなってたんじゃないかな、全体で見れば。