サンプリングという略奪


 録音する。 音楽に携わる人たちで、この言葉にこだわらない人は、おそらくいないでしょう。それは、もう100数十年録音の歴史が流れていることや、POPを中心にした音楽産業の根幹にある作業になっていることでもはっきり分かります。 かほどさように、人は音楽を記録することにこだわってきたのでした。

 小は家庭でのカセットでの、大はスタジオでのレコーディング。でも本質は全部同じ。音楽と言う空気・時間を記録する事です。なので、沢山音楽を聴いている人ほど、音質や価格などにはこだわりません。要は内容が分かればそれでいいと言うお話です。これは言い換えれば、演奏するほうの音質なども、極論すればそんなに感動の質には影響しないと言う事でもあります。

 僕ら音楽が好きなものは、このことにもう一度立ち返ることが大切なのではないかと思います。つまり、音質よりも曲想・パフォーマンスの質が、音楽なのだと言う事です。

 今や、世界のあらゆる音を、音楽の一部として取り込むことが、録音の現場ではテクノロジーの進歩で出来るようになりました。それこそアフリカの少数部族の人たちの祝祭のシャウトを、自分の声のバックに配する事も意のままです。・・・でもね。その行為は、基本的に略奪なのかもしれません。

 西洋からの楽器を演奏して、自分たちの音楽を創るのは、これは創作です。でも、先の例は、パフォーマンスという心のこもった行為そのものを盗むわけです。本来的な意味で、盗作とはこのことではないでしょうか。まして、それを記録媒体に残して自分のものとして売るとは、どうでしょうか。

 つぎはぎの貼り付け音楽=サンプリングでの音楽では、ディープ・フォレストが有名です。あれは張り合わせる事で架空の文化を創ることに成功した稀有な例です。ただ、彼ら以降、そんなアーティストが世界を席巻しないのは、世界の音楽愛好家がまだ捨てたモンじゃない一例でしょう。つまり、盗むなよ、と。

 ところがこの国ではセコイ輩が多いみたいで、録音物にノークレジットで偉大なミュージシャンたちのパフォーマンスを自分の声の後ろに配したものをよく耳にします。何度も言いますが、この行為は、そっくり同じフレーズを違う人が演奏するのとは根源的に意味が違う。バーナード・パーディさんのフライングダッチマン時代の演奏を、無許可でそのまま自分のCDに取り込んでいるバカが、この国の「人気」アーティストにいます。 僕は、そいつは許さない。その品性の下劣さにおいて。そして、POPミュージックを見下すような、その視線において。

 おい。今からでも遅くはない。あのトラックで得た印税の一部を、彼に払え。おまえにプライドがあるなら。