78年

 うーん。この1978年というのは、フツーにやってたら僕は大学卒業の年だったのですが、いろいろなことが重なって、卒業はしませんでした。まあ、簡単に言うと音楽で食べていきたいという気持ちが固まって、いろいろとはじめた年です。この年は、シーンが見事に分かれていった年です。これははっきり覚えている。

 まず、歌謡曲のロックの取り込み。これは、CHARがどんどん見事に歌謡曲のシーンに飲み込まれていったことや、ピンクレディーのプロデューサーの洋楽感覚、コンテストの大メジャー化による地方のシーンの瓦解などが主だったところでしょう。特に音楽をプレイしていた僕にとっては、3つ目のことがすごく寂しかった。たとえば、昨日までライヴハウスのスターだった人達が、ある日ツイストのギタリストになってたりという吸収が、この年から露骨に始まったのでした。このことによって、結局「食える音楽活動」を考えてしまった人達が東京でのスタジオ活動を頂点とするプロのプレイヤーを目指し、街を離れ始めます。もちろんそうじゃない人達も沢山いたのですが。

 僕がいた京都では、ライヴハウスでは相変わらず活況を呈してたし、地元から全国への波動もまだまだ大きなものがありましたが、関西以外の地方の有名ミュージシャンが東京を拠点にし始めたのは、やはりロックのメジャー化(幻想ですが)による仕事量の違いだったのでしょう。

 前にも書いたように、日本のロックの始まりは、なーにもないところからでした。素人が見よう見真似でいろいろな環境を作ってきて、それは学生上がりのプロモーター・ライティング・PA・スタジオ・エンジニア・ミニコミのスタッフなど、それまでになかった仕事を作り出しました。この時点ではまだ、ロックは「僕らのもの」でした。それが1976年くらいの感覚です。それ以降は、「若いもんの音楽が商売になり始めた。」事に気づいた広告代理店・レコード会社・ヤマハ・もちろんTVなどの大資本・体制が、素人が作ったものをそのまま人ごと取り込んで、産業にし始めたのです。

 くしくもこの年は「ラストワルツ」上映の年でした。ザ・バンドの解散は1976年。そのラストライヴを映画にした作品です。この映画には、それまでのロック黄金時代を作った人達が沢山出てきて、自分達のロックを解散への手向けとして演奏するのですが、当時はそれがなんだかあまりにも悲しくて、よく「ロックの葬式」映画といわれました。

 今回ロックという言葉を多用してるけど、この中には「フォーク」として広まった日本の音楽も含んでます。つまり、60年代後半からの新しい意識を持って作られた音楽は、この78年くらいを境に新しくなくなっていきました。だって、もはや商売に取り込まれたのですから。

 ところが。いつの時代でも「抗う人達」がいるのです。このときは、東京ロッカーズの人達が出てきました。なんといっても田中唯志さん。この、東京ロッカーズという、パンクムーヴメントの黒幕です。彼はライトミュージックに、その卓越した批評眼でPOPを語っていた人で、ものすごい量の知識を持った人でした。そんな彼が、76年にピストルズが出てきたとき、「新しい時代の新しい意識」を感じてかみをばっさり切って自身でもバンドを始めます。S−KEN。ここにフリクションなどが集まってきて出来た集団が東京ロッカーズでした。 それと、YMOの母体がこの辺から出来ていきます。

 彼らの音を初めて聴いたのは、先輩でプロモーターをやってた人からのデモテープでした。その先輩は、「おまえ、この音楽どう思う?」と不安げに聴かせてくれました。僕はアタマをどつかれたようになって、明くる日に爆発してた髪の毛を自分で切りました、ばっさり。自分達はもろアメリカン・ミュージックやってるのにもかかわらず(笑)。そのくらい、パンクは衝撃的に響きました、1978年の僕には。それからは、しばらくその手の音楽に詳しい後輩にアルバムを借りて、ストラングラーズ・ダムド・ピストルズなんかを爆音で聞きました。・・・我に返ったのは2週間後。「はっ」と自分のことを考えて、またアメリカンミュージックへの旅が始まったのですが。でも、このときのパン
クの洗礼は、僕の中で非常に大きい衝撃として、後々まで残っていきます。その衝撃とは、「またもや誰もがロックを作れる時代がきたんちゃうか。」という痛快さです。そんな風にアンダーグラウンドでは、パンク〜ニューウェーヴサウンドが始まった年じゃなかったかな。

 よく覚えてるのは、この年あたりから、ソロでのライヴをやる人が減って、エレキにせよ何にせよバンド編成がまた増えてきていたことです。大資本の音楽の作り方はテンポが速くて、どんどん消費していきます。急激に増えたアーティストによるCMソング。レコードラッシュ。粗製濫造気味のアーティストデビュー。一見、ロックが定着してきたように思えるのですが、実は産業にしたい奴らが勝手に作り出した音楽だということが見透かせる、そんなものが多かった。だから、この年のアルバムはほとんど印象に残っていません。南 佳孝の「サウス・オブ・ザ・ボーダー」くらいかな。これにしても、もう職人芸の世界が展開されていて、そのすごさだけを感じました。つまり、音楽が誰にでも作れるものじゃなくなって、その分面白みが消えた。そんな年でした。

 僕はこの78年後半から、こんな面白くない日本のシーンを追いかけるのはやめました。かつてのPOPが持っていたいろんな秘密を探りたくて、当時は発売がとまっていたモータウンの古いアルバムや60年代のPOPなんかを真剣に聴き始めました。そんな中で沢山の偉大な曲・作曲家・プロデューサーを知り、自分で勉強をしました。イギリスにもそんな奴らが沢山いました。このころ出てきたコステロなんて、もろそんなやつの代表です。あとジャムのポールウェラーとか。

 ただね。ちょうど僕の世代の人達で音楽を作ってた人達は、独自の活動をこの辺から始めてます。これが79年から80年に、大きな個性になって噴出してきます。