メリージェーンとその時代

なんにも面白いことがなかった73年の秋の午後、僕と何人かの友達は、高校近くの喫茶店にいました。そのころもう廃れかけてたジュークボックスがそこにはあって、でももう誰もそれを使わなくて、有線で流れているサンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」やエルトン・ジョンやヘレン・レディが流れていました。

 マキとみっちゃん、僕と亀井たちは、その日5時間目の日本史の授業をブッチしてそこにいました。誰かが「なー、懐かしい歌をかけようや。」といって、メリー・ジェーンをジュークボックスで流しました。そうすると、あの独特のイントロが、ジュークボックスのモコモコの音で流れ出し、店の中は一瞬で71年当時の空気になったようでした。ここのマスターは、この歌が好きなのか、どんなにほかの曲が変わっていってもこの曲だけははずさなかったのでした。

 僕らがこの曲を初めて聴いたのは、たしか71年の深夜放送です。つのだひろ は当時、日本のロックの大御所 成毛 滋さんたちとクリーム・スタイルのバンドをやってました。だからメリージェーンのバックはその辺の人たちだったと思います。 なんていい曲なんやろ。正直そう思いました。でも、どうやって手に入れたらいいか分からなかったのです。だから、しばらくはほおって置いたんです。 でも次第にジュークボックスや有線でかかりだして、「ストリートの」音楽が好きな人なら誰もが知っている曲になっていきました。

 有線放送で広まったロック。おそらく、それは初めての流れでした。 当時はオリコンは純然たる業界紙で、ヒットチャートなんてラジオ局にくるはがきの多寡で決められているものしかなかったから、クラブや喫茶店やコワイ場所だったディスコで頻繁に流れる音楽は、そこに行かなきゃ聴けなかった。だからこの曲は、長い間アンダーグラウンド?な、現場だけのヒットでした。言い換えると、この曲を知っているかどうかは、そんな場所にいたかどうかの判別が出来るわけで、同じ類の奴かどうかが一瞬でわかるキッカケでもあったのです。

 この類の曲やアーティストは、他にはキャロルやダウンタウン・ブギウギバンド、内藤康子なんかもそうですね。最初に誰がそんなアーティストをお店で聞けるようにしたのかは分からないけど、独特のヒット曲がそこには沢山ありました。同じようにディスコに行けばオージェイズやデルズ、ビル・ウィザーズが流れてました。つまり、場によって違う音楽が違う空間を作っていたのでした。

 驚くべきことに、同時期に京都で高校生だった僕の奥さんも、友達と入った喫茶店なんかで、90%くらい同じ「ヒット曲」を聞いていたのです。これは、その当時の若い奴らの行動パターンが、そんなに多くなかったことを語っています。 奥さんは僕よりも現場主義な人ですから、サンタナのベストアルバムとか変に持っていたりします。

 僕は、こんな状況が好きでした。違う行動パターンには、違う文化があって、違う人種がいる。でも、一点、音楽が好きってだけで、ダボハゼのように浴びるように音楽を聴いていた僕は、どの人種の奴らとも話せました。

 本当の意味での「ストリート・ミュージック」って、こういう広がり方だったと思うのです、日本でもアメリカでもロンドンでも。 だから異人種間の対立や抗争が起きたし、それが音楽をより鮮明な物にしていたし。まあ、日本のそれは、前提が「欧米のムーヴメントの真似」から出来てくるものだったんですけど。

 さっきTVでつのだ ひろさんが出てて、名曲「メリージェーン」を2000年ヴァージョンで歌ってました。ひろさん、あなたが僕らに残したものはとても大きいのですよ。それは「僕らだけのヒット曲」と密かにみんなが思っている「メリージェーン」を、全国のやんちゃな奴らが集まる場で聞いた人は、全員思っていることなんですよ。

 ・・・またききたいなあ、キャロルのファンキー・モンキー・ベイビー。もちろん、ジュークボックスで。