79年

VOL13 1979

この年、その後の音楽を大きく変えた2つの事件がありました。まずはYMOの浮上でしょう。何といっても前年からブームになっていたインヴェーダー・ゲームのキャラのような、サイバーで生活感がないメンバーの「見せかけ」と、テクノ・ポップ。僕らのような古くからのファンにとっては、もう一つ今までのロックシーンを覚醒させつづけてきたホソノさんとユキヒロさん、そして浅川マキなどのアヴァンギャルドなミュージシャンとの活動で、一種の異端を感じさせていた坂本龍一の新しいサウンドがこれか!という大きな驚き。 これらのことが渾然一体となって、大騒ぎになったのでした。

前回、1978年のところでも書いたように、この頃のロックはもう、世界的に面白くなかった。日本では歌謡曲のようなサウンドを持つバンドをロックといったり、アメリカでは口当たりだけ良くてなんら刺激のない音楽をAORと言ってたり、イギリスのメジャーレーベルからの音楽は、なんだか大層なロックが多かったのです。唯一、シーンとしての活況はイギリスのパンク〜ニューウェーヴのシーンでした。YMOのメンバーは、特にホソノさんは、自身の世界的な音楽探求を一渡り終わらせた上で、「科学」を感じたのでしょう。それは、同時期にマイコンと呼ばれるPCが日本でブームになってたり、APPLEがパソコンの概念を始めて市場に持ち出した頃だったし、何よりドイツのクラフトワークというバンドが76年頃から始めたサウンドに、その科学と共にある重要な感覚が隠されていることを見逃さなかったのでしょう。

僕はプログレ好きの友人から、このYMOが話題になった時に、YMOと一緒に一連のドイツものを聴かせてもらいました。その時は「なーんやこれ。」って感じだったのですが、重要な感覚が頭の中に残りました。FUNKを聴いてた時と同じ「頭の中がスーっと」したのです。それまで、最小限の構成のリズム体での隙間だらけの演奏で、しかも黒人のアルバムからしか感じたことのない感覚が、どうしてドイツの、しかも機械で作った音楽から来るのか。これは数年間僕の中に違和感として残ったのでした。 その答えはある日、突然解決しました。レコード屋でプリンスを聴いた時でした。「あ、っそうやったんか。」って。これはとても嬉しかった。

簡単に言うと、YMOもクラフトワークも、FUNKだったのです。よりダンサブルにする為に音を抜いていく。その過程で、音のタメとか揺らぎまでとってしまう。すると、ものすごくソリッドな、ビートでしかない音が残ります。これがFUNKの基本です。ましてやYMO達はビートをマシンで作ってます。正確無比なのです。この事が、新しい・よりダンサブルな音楽を作る基本になったということだったのです。しかし当時は、音楽をプレイしている人達は、よりヒューマンなノリを追求している人が大半だったので、この新しい音楽には懐疑的な感じでした。YMOに火がついたのは、ゲーム・キッズ達からだったのです、日本では。ところが。アメリカでは、ちゃんと黒人ダンスチャートに登場してきたのです。これは、ちょうどこの年あたりから出てきたヒップホップ文化=ブレイクビーツを支持する若い奴等の動きと、リンクしたのでしょう。

 そしてもう一つの大きな出来事。それはウォークマンの発売でした音楽が一人のものになる。いつでも何処でも聴ける。このマシンは、それまでのPOP音楽が持っていた共有する楽しみの何分の一かを、その後ゆっくりと・しかし確実に奪っていったのです。他方で、音楽周辺にいた人達は、このマシンで音楽のチェックが個人的に出来る事で、今までより多くの情報を得るようになりました。

 音楽の聴き方が確実に変わりました。一つの音楽をみんなで聴くことが減ることは、いろんな聴き方があることを忘れるということです。それと、同じ意味で音楽がTPOで使い分けられるということです。そのようにしてごく個人的なモノに音楽がなり、新しい音楽と出会いにくくなった。ウォークマンの出現には、そんな面もあったと思います。

 このように、後の10年間くらいの音楽を左右する2つの出来事があった79年ですが、前回少し触れたように、個性的なスタンスで音楽を作っていくことになる人達が、またシーンに浮上してきた年でもあります。

 まずは柳 ジョージ。この人はベテランです。伝説のバンド・パワーハウス〜ゴールデンカップスとキャリアを積んで、レイニーウッドとの活動でブレイクしたのがこの年でした。R&Bしか聞かない友達が、「おっさん、こいつええで!」と教えてくれた日本人ヴォーカル。そんな、マニアに認められるでてき方をした日本のシンガーって、当時は珍しかったのです。3枚目のアルバムはYOKOHAMAというタイトルで、ここで詩を手がけているのがトシ スミカワこと増田俊郎。サザンブリードというアメリカンロックバンドで、関西のシーンではスターだった彼が、素晴らしくイメージの膨らむ言葉で柳 ジョージのサポートをしていたのです。それと山下達郎。ソロになってからの彼は、この年に
やっとダンサブルな曲でラジオからブレイクします。

 他にもサザンのエリーの大ヒットなんかも、それまでではあり得なかったことでした。それまでの歌謡ロックバンドなら、似たような曲を3曲出してフェイドアウトが常識だったのですが、サザンはバンドのわがままでこのバラード出して、見事生き残りました。それどころか、この曲で世代を代表するバンドになったといってもいいでしょう。つまり、僕らにとっての「ホンモノ」がちゃんと認められ始めたのでした。僕は、個人的には、この3組が認められた時点で、「やっと僕らの世代の音楽が育ってきたなあ。」と思い始めました。

 3組とも、出自はROCKです。それも、ライヴからのバンドでありシンガーです。音楽が好きでしょうがない人達が掘り出して、レコードを買って育てた人達です。このことがどれだけ心強い思いなのか、わかりますか?

 そしてもう一つ。79年の終わりに、「東京のライヴハウスで、DOO−WOPPの若いバンドが出てきて面白いことになってる。」という噂が聞こえてきました。そう。シャネルズです。パイオニアのラジカセかなんかのCMで、ランナウェイが流れたときに、あくる日レコード屋に行って「ちょうだい!」といってまだ出ていませんでした。僕は、あの曲の鈴木雅之のヴォーカルには、ロックンロールのマジックがあると今でも思います。そんな風に、音楽好きがわかる音楽センスをもって、シャネルズは登場しました。

 79年はこんな風に、後のロックシーンを引っ張っていく人達の登場と、大きな事件があった年でした。本当は、TOKYOロッカーズのことや関西のシーンについても書きたかったけど、まあまずは大きな動きをまとめておかないと後の流れが見えにくいかもしれんので、今回はこれにて終了。