新しい10年

その話を聞いたのは、たしか1979年の11月。かつてのバンドメンバーで、当時イベンターになっていたT君からでした。「RCが、盛り上がってるらしいで。あのRCが。こんど、屋根裏4日間をやるらしい。」へーえ。どんな感じでやってるのかな・・・。とそのときは別に関心がなかったんですが、春頃に新生RCのサウンドを何かで聴いたときに、「うわー、こんなカッコよかったっけ?」って。それと「今いくつやったっけ、あいつらって」と思いました。

 前回、70年代の終わり頃から、個性的な活動をしてきた人達がシーンに出始めたことは書いたのですが、僕の印象ではその最後かつ最大の規模を持ってRCは出てきたのでした。その登場の仕方は、最初ぱっと聴いたときは「・・・でも計算はいってるよなぁ。」とも思いました。つまり、ロックの王道・ストーンズマナーがちょっと鼻についたというか。でも、例のライヴ盤がでて、その新しい曲達を聴いて、もう一気にもってかれました。「R&Bやんかー!」って事です。ビジュアルはどうでもいい。あのサウンドとあの声。

 僕や弟は、70年代の初めにRCに出会ってます。そのときの印象は、シュールなバンドということでした。でも、玄人受けするバンドでした。ほかのアーティスト達はよく「RCはスゴイ」とラジオで言ってたんで何がスゴイのかようわからんままで納得してたんです。でも、この事実上の再デビュー時にはっきりわかりました。「歌詞や。キヨシローの歌詞。それとヴォーカルや。」ということです。あっという間にRCは大ブレイクしました。この後たった1年ほどの間に、どのライヴでもトリを取るバンドになってたもんな。個人的には「トランジスタラジオ」と「どっかの山師がぁあ」って曲の入ってるアルバム「PLEASE」が大好きです。POPで、本当のことしか歌ってなくて、ふざけてる感じが。

 RCと同じ年に、もう一人同い年で面白い奴が出てきました。彼を知ったのは12月。尼崎のピッコロシアターという小ホールでした。僕らも出てたコンサートに出て、「悪魔とモリー」というミッチライダー&デトロイト・ホイールズのロックンロールメドレーを、まるでバディ・ホリーのようなしぐさでキメてました。そのバンドのギターは、なんと伊藤銀次さん。 そう。佐野元春ハートランドです。彼らも僕らのサウンドを気に入ってくれて、佐野君とは付き合いが始まります。で、そのときにもらったテープが2NDアルバム「ハートビート」だったのです。

 これは、ものすごくショックでした。ついに根本から新しい奴が出てきた。日本のロックやラジオの文化からは発想できなかった世界=アメリカンカルチャーからの日本語で奴の作った世界は、まったく新しい風景を僕らに提示してました。音楽に、特にロックに詳しいことはその言葉使いとライヴでのリズム隊のあしらい方で、一発でわかりました。 あのときのライヴをみんなが見てたら、疑うことなくこう思ってたと思います。「こいつ、シーンを塗り替えるで!」って。で、実際そうなって行ったのですが。

 RCにせよ、佐野元春にせよ、新しさは言葉からでした。やってることはまっとう過ぎるくらいのロックですが、世界への視点が新しかった。同じ事を歌っても、彼らの歌ではまったく違う心象が込められてるのです。このことが彼らを、今だまったく古びさせない理由だと思います。

 僕にとっての80年は、この2組につきます。いや、個人的に振り返ったときはまずはこの2組です。どれくらいシーンに影響を与えたかというのは、皆さんのほうが良く知ってると思います。僕がわかる範囲でも、たとえばRCはそのスタイルでバンド人口を劇的に増やしたし、佐野元春はプロの作詞家にそのワードライティングの癖を沢山ぱくられ、果ては吉川コウジというふざけたフォロワーまで出てきたし。

 重要なのは、この2組の影響というのはきわめて内面的なものだということです。たとえばRCなら、ボウイというバンドの人達がRCのソングライティングに影響を受けたことを言ってたり、佐野元春ならグレイの人達が「神」といっている。でも、外見やサウンドではわからないもんね。

 音楽をプレイするきっかけをもらう以上に、彼ら2組の影響で生き方が変わった人達が出てきたのも、それまでの日本のROCKにはなかった事です。

 影響は、まずコピーライター達に出てきました。そう。言葉が仕事の人達です。そして次に、物書きの人たちに広まって行きました。いや、逆かもしれない。彼らを知って物書きになったということかもしれない。その人達はとにかく、その後2組の知的なバックグラウンドを調べ、アメリカンカルチャーや絵画の方面に影響され、現在では出版やアート関係の仕事で中堅になっている人が多いのです。

 前回、「その後の日本のROCKの原型を作った人達」と書いたのは、ROCKが本来持っていた「生き方」にかかわる部分を揺さぶった意味で、彼らが最初であったということなのです。それまでも音楽が好きな奴らが日本のロックを支持していく部分はあったのですが、彼らの影響はそうじゃない、関心のなかった奴らにまで「歌詞」を通して自分を考えさせることをさせた点で、画期的なのです。

 派手な動きはこの2組でしたが、実は他にもシーンの水面ではとんでもないことが起こってました。YMOの音楽の進化=深化です。彼らのコンピューターを使っての音楽作りの中で、マニュピレーターという、音符を数値化してデータとして打ちこんだり、音色を作ったりする人の役割はとても重要でした。YMOのマニュピレーターは、富田 勲さんに師事していた松武 秀樹さん。彼が80年に自作した「オレンジ」という機械が、そのすべての始まりでした。

 オレンジ は、世の中のあらゆる音をPCM録音するキカイ。それだけなら当時イーミューのエミュレーター 1をはじめ、数種類のマシンがシンセの形でありましたが、こいつはその録音したサウンドをリズムに同期させる形で実用的に鳴らせるようにしたものなのです。簡単に言うと、灰皿をたたいた音を録音してそれをドラムのスネアの代わりに「自動的に」鳴るようにしたものでした。この、自然音を音源にしてサウンドを構成するやり方は、その後の世界的潮流となり、現在でも盛んに使われている音楽作成の重要な手法です。

 YMOは、このマシンを駆使してアルバム「BGM」「テクノデリック」というスゴイ2枚を出します。この2枚のアルバムは革命的でした。何が革命的かというと、こんなわけわからんサウンドが、ヒットチャートの上位(アルバム部門)を占めるくらいの売上があったのです。このことこそ、現在の音楽につながる影響をYMOが与えたといわれる原因です。

 また、同時期に電子機器の根本を構成するLSIが劇的な値下がりをはたし、その影響でシンセやシークエンサー・デジタルリバーヴが劇的に値下がりし、その「サンプリング」というテクニックはあっという間に世界的に広まります。オレンジよりもスゴイ機械がメーカー品で・安く手に入るようになったのです。このことで、当時の子ども達でも、ちょっと頑張ってバイトしたらそれらのマシンが手に入るかもしれないことになり、実際手に入れて新しい音楽を「個人で」作り始めました。

  このように、その後の音楽を根底から変えるような動きが、YMOとその周辺ではありました。その後のYMOは、ご存知のように、映画作家・作家・アート関係・学者など、知的産業に従事する人達とのコラボレーションでどんどん現象として大きくなっていきます。残念なのは、たとえば細野さんのベースプレイのすごさや教授のピアノプレイや作曲能力の高さという、彼らの音楽そのものの評価がどんどん薄くなっていったことです。

 的を絞って書いてきた80年ですが、他にも面白いことはありました。大阪ではもう恒例になりつつあった夏のフェス形式のロックコンサートが、どんどん地方や東京にも波及していったのが80年以降です。これはつまり、地方のイベンターに力がつき、ビッグイベントを開催できるようになったということです。そんな、オムニバス形式のフェスで、いつもバンドの間とかで出てくる2人組のユニットがありました。ゴンチチです。僕はこの年に知ったのですが、実は大阪では数年前からプレイしていました。この2人にも、僕は新しい世代を感じました。あらゆる音楽をギターでプレイできる2人。このころのゴンチチはそれこそラグタイムから「ゲットー」までスゴイリズム感でプレイしてました、ひょうひょうと。

 パンクシーンは、ニューウェーブという名前も併用しつつ、どんどん広がっていました。僕らはもう、その中へは入っていかなかったけど、十分シンパシーは持っていました。イギリスからは、JAMやCLASHの新しいアルバムが届き、これらは良く聴いていましたけど。特にCLASHの「サンディニスタ」はすごいなあと、ほぼ毎日聴いていたことがあった。あとはジョー・ジャクソン。3RDアルバム「ビート・クレイジー」は、今でも愛聴盤です。

なんだかスゴイ個人的になったと思う今回ですが、言いたいことは書けたと思います。
次回は81年。お楽しみに。