1981 10年ひとまわり


 新しい意識で新しい音楽を作る−−前回、80年代に入ってからそういう人たちが面白くなってきたことを書きました。どうやってそんな人たちが生まれたのか。これには、シンセの飛躍的な進化と、自宅で録音できる器材の充実が、大きな力を貸しています。

 日本でのシンセサイザー制作は、70年代初期から行われています。その中で、現在でもトップブランドで有り得ている2つの会社があります。そう。ローランドとKORGです。僕が知ってる範囲では、ローランドは60年代から70年代初頭まではACETONEのアンプなどを作っていました。それが、70年代後半から、僕らでも買える10万円程度のシンセを出すようになってから、急速に電子機器中心のメーカーになっていたのですが、大阪・住之江にあった会社は、町工場みたいでした。そう。ここにもヴェンチャーな人たちがいたのです。KORGの京王技研も似たようなものだったと思います。いつかまた、この辺を調べてみたいと思いますが、まさに70年代の電子機器業界は、パソコンの歴史と同じようにこの頃に生まれたといっていいと思いますし、黎明期ならではの面白さがあったと思います。

 それが、以前にも書いたLSIの劇的な値下がりで、製品が安く・大量に作れるようになりました。このタイミングで、アメリカですごいシンセが出たのです。プロフェットー5。アメリカのシーケンシャル・サーキット社という、これもガレージ・メーカーでした。これがなぜすごいのかというと、ぶっとい音のまま、何と5音同時に音を鳴らせる=和音がでる。更に、自分の作った音色を数十種類メモリーさせておける。出た頃は200万円くらいしたのですが、それだけ出しても買う人が後を断たなかったのは、打楽器までカバーするその音色作成の多彩さでした。

 ギターやピアノなどのある程度の固有の音色を持つ楽器とは違い、シンセって抽象的な音を出すことが出来ます。世の中にこの音が和音になることはまずない、と思われるひびきも出ます。しかも和音で。この事が、世界中のキーボード弾きだけでなく、ギターやドラムをプレイする人をもとらえて、プロフィット5はあっという間にスタンダードな楽器になりました。

 このチャンスを逃がさずに、ローランドやコルグはよりやすい価格で同じような性能のシンセを出します。特にこの頃のKORGのものは爆発的に売れたはずです。プロフィット5が出たのが79年かな?その2年後にKORGがPOLY−6を24万円で出します。機能はほぼ同じで。これくらい当時のLSIの価格破壊は劇的でした。

 同じように、どんどん身近になったのが録音機器です。まずはTEAC。ここが日本の自宅録音を変えていきます。70年代の半ばに、まず8チャンネルのオープンリールレコーダーを、ちょっと高いけどリリースし、その感触の良さに気を良くしたのか、ついにカセットで4チャンネルを録音できる機器をティアックは出します。簡単に言うと、ひとりで4回モノラルなら録音できて、ダビングすると7回くらいまでなら録音できる機械です。 このことが、音楽製作を変えていきます。

 つまり、シンセとこのMTR(マルチトラックレコーダー)があれば、一人で全部音楽を作れるようになったのです。今まではレコーディングといえば1時間ウン万円の費用を払ってスタジオに行って行われていたのですが、誰でもが時間もコストも思いっきり安く音楽を作れるようになった。 これはねー、ものすごいことだったんですよ。

 こういったことと、前に書いたウォークマンの普及や円高による輸入物の普及が、80年の背景です。こんな背景をもって<新しい意識の新しい音楽作り>が出てきます。

 たとえば、ほんの数年前なら絶対に経済的に無理だったYMOのコピーが、これら機器の普及で出来るようになりました。 TMネットワークの3人は、この年あたりからそんなサウンドを作り始めています。また、ノイズを録音し、それで音楽を作る人達が出てきました。さらに、バンドのデモテープも自分達で作れるようになり、このことが後で書くインディーズに直結していきます。

 日本での新しい意識は、残念ながら表層にはまだ出てきませんでした。81年の大きな出来事は、むしろベテランからもたらされました。大瀧詠一。彼の「ロング・バケーション」です。噂は、前の年から、音楽関係者から入ってきてて、「スタジオで寝泊りし出した」とか「歌入れにもう100時間かけて、予算なんかどっかにいった」とか、「日本のスタジオミュージシャンが根こそぎ彼のアルバムに参加してて、人手不足になってる」などなど。 後年、彼自身が「このアルバムをもって、音楽稼業をやめようと思っていた。だから、全霊で作った。」と語っているように、72年のソロ第一作から例の「音頭モノ」までのノウハウを全部つぎ込んだアルバムになった「ロング・バケーション」。

 最初に聞いたのが6月かな? まず驚いたのは、フィル・スペクターサウンドを完璧に再現していることでした。噂はうそじゃなかった! フィルスペクターの作るサウンドは、アコースティックギターをシャラーンとやるだけでも、4人が同時に同じことをやります。そうして「音の壁」を作って、そんな編成が「セーノ」でいっせいに演奏したものをカラオケにします。だから、莫大な人数のミュージシャンが必要なのです。重ねどりしたらいいやん、と思うでしょう?それはダメなのです。個人のもつクセが同じように重なると、骨太なビートが消えるのです。だから、一発録音でやる。

 サウンド、曲とも、彼のキャリア中最高のものでした。はっぴえんどの頃からのファンとしては、すごく大きな贈り物をいただいたみたいで、夏中これを聞いてたものです。でも、売れないでしょう、やっぱり、と思っていました。だって、今までも売れてないものね。中にはシリアポールの「夢で逢えたら」なんて最高の作品もあったのに。

 ただ、「あれ?」と思うことが、発売時いくつかあってね。まずジャケットデザインが今までのセンスとは違ったこと。それと、音楽雑誌の広告はなく、一般のファッション誌への訴求だったこと。さらに、グッズが多岐にわたって配布・販売されたこと。・・・・そう。このアルバムこそが、日本のロックの広報戦略を変えたのです。

 それまでは、アーティストがレコードを出すと、有線を回ってかけてもらう。で、地元のラジオ局・レコード屋ミニコミ・新聞で取材を受ける。それはどんなとんがったロックバンドでもそうしてきたみたいな、地を這うようなプロモーションでした。ところが、オオタキさんはすでにベテラン。しかも、アタマを下げるようなことはしたことがない。だから、CBSのとった作戦は、人海戦術でした。

 まず、東京で、発売したばっかりのウォークマン2に、このアルバムのテープを入れて、若いやつらにキャンペーンガールが試聴してもらう。で、アンケートに答えてもらう。その結果割り出された、反応のいい世代が読んでいる雑誌にスポットを打つ。ラジオも同じ。こんな、アメリカンスタイルの戦術で、このアルバムは売られました。ロングセラーになる兆しが見えたら、今度はカラオケアルバムやナイアガラの過去のアルバムを切り売りして、関心を持続させる。みごとな戦略です。

 80年代の日本のエンターテインメント産業には、それまでと際立って違うことがあります。それは、東大・京大卒のスーパースマートが、この分野に積極的に就職してきたことです。たとえばMANZAIブームを作った吉本興業のナカムラ氏。たとえばこの「ロングバケーション」を売ったディレクター。かれらはそういった人達だったと思います。

 こうして、かつて日本の<新しい意識>だった はっぴいえんど の一員のソロアルバムは、はっきり商品になったのでした。でも、売られた商品であるオオタキさんの作品が、彼のキャリアの中でもダントツNO。1というくらい素晴らしく充実していたので、結果的に「いい音楽が広まった」ことになって、僕は嬉しかったな。また、よくなけりゃ、売れてないだろうし。

 そう。81年は、僕らの音楽だったPOPが、販売のプロの手で売られていく商品になった年です。でも、それを拒んだ人達も大勢いました。彼らは大手のレコード会社や事務所の管理下では、自分達の表現がうまく行かないと考えました。そこで、自分達で販売ルートまで開拓する、いわゆるインディーズを立ち上げていきます。 最初はパンク・ニューウェーヴのバンドがそんなシーンを作りだしていったのですが、この動きはやがて、全国の外資系CD屋や輸入盤屋さんが支援するようになって、あらゆるジャンルの音楽がそろうシ−ンに育っていくのは、みなさんご存知の通り。歴史は繰り返す。70年代初頭のURCがそうだったように・エレックがそうだったように、生き生きした表現は、この年あたりからインディーズレーベルやまたも出てきた新しい世代のライター達が作るミニコミに移っていきます。

 でも。関西はちがいました。相変わらず、天王寺の朝市に行けば、ヤヤコシイおっちゃんが「白いギター、安いで、20000円!」とか言いながら、横にあるフツーのギターが、どれだけ名器か知らずに3000円で売ってるという風情がありました。独特のシーンが、形成されていました。