82-84年 関西、そして60年代への回帰

 

82年から84年にかけて、関西はどんな感じだったかな。 僕が覚えてるのは、ベテランたちの自然な、ライヴハウスを中心にした活動と、バンドの自然な離合集散でした。もともと狭い範囲でたくさんのミュージシャンがいたのですから、人のつながりは広く強いものがあったようです。例えばウェストロードのメンバーと、サウスやソー・バッド周辺の人たち、また、関西のソロシンガーたちは、70年代の初期から何らかの場でかかわりをもっていたので、お互いの音楽や動向を知ってるわけです。情報も早いし。

 70年代の終わりごろから、そんな人脈は、関西のミュージシャンがどんどん東京に「腕試し・運試し」に出て行くことで、一時的に薄まったものの、今度は東京在住となった人たちが関西にプレイしに帰ってきたときに、向こうのミュージシャンを紹介することでさらに膨らんでいきました。例えば、ホトケ。彼はウェスト・ロード解散後しばらくしてから東京に行き、そこで下北沢にいたミュージシャンたちと知り合い、彼らを多くの関西のミュージシャンに紹介し、自らも下北沢を拠点に活動していきます。また、もともと関西だった大村憲司さんは、79年から80年代初頭はよくタクタクでのセッションでブルーズをプレイしてたし、そのときのメンバーは東京+関西ってことが多かった。小原 礼さんのベースとかはこの頃関西でも聴いたもんね。

 そういう中から生まれたバンドがヴォイス&リズムでした。金子マリ石田長生、国分輝幸、藤井 裕・・・。この辺からイシヤンのボーダーレスな活動が表に出てきました。彼は、74年かな、名古屋でCHARとマリさんのスモーキー・メディスンとタイバンになったときに、CHARと相思相愛になり、その後もCHAR周辺のミュージシャンとどんどんJAMしたり、また、この頃ブレイクしていたRCのメンバーとも親しくなって、活動範囲がどんどん広がっていく感じでした。この時代からの付き合いが、裕ちゃんが今ラフィー・タフィーにいたり、イシヤンがBAHOやったりと有機的に拡がっていくきっかけになってると思います。

 また、「ちょっとじっくりと自分の歌を見てみようと思い、ツアーだけやってた。」大塚まさじさんたちや、憂歌団のカンタローさんと有カンというデュオで始めた有山さんなどのように、自分の音楽をじっくり作る作業に没頭するような動きをとった人たちもいました。

 ただ、みんなそんなに焦っていなかったと思います。というのは、70年代の大阪から出て行ったバンドやシンガーが、東京に行ったらそれなりの評価をされてて、いきなりライヴなんかでも動員がかかったりする、自分たちの想像以上の「認知度の高さ」や、スタジオミュージシャンをやってもすぐに仕事があるような大阪出身のプレイヤーの評価があったのと、これが大きいと思うけど、80年代初頭には、大阪でも京都でも神戸でも、彼らベテランをリスペクトする世代がメディアの現場には必ずいたから、大きなコンサートやイベントになると彼らを敬意を持って呼んでた印象があります。つまり、彼らにとってはやっと、地元にいても音楽が仕事として成立するようになってきたと。実際、この81年-3年くらいに見た有山さんのライヴやヴォイスのライヴは、本当にかっこよかったし。それは、何にもない所から土を起こし種をまいた人たちにしか出来ない、滋味のある音楽になってたもん。

 なにより、この頃に関西一帯に出てきた憂歌団フォロワー・有山フォロワー・中川イサトフォロワーたち。彼らは小さなライヴハウスで先の人たちを真似てギターを弾き歌ってたのですが、そんななかからゴンザレス三上チチ松村が出てきたことを思うと、大阪のオリジネイタ-達の音楽は相当深く浸透していたと思わざるを得ません。

 で、もう一方では、ヘヴィ・メタが大きな動きになりかけてました、いや、なってました。僕はこの辺はあまり知らないのですが、よくバーボンハウスに行くと、例えば増田俊郎のバンドの前の日には44マグナムとかが出てたし、ローカルTVの音楽番組では、彼らがよく出てましたし、びっくりしたのが「愛してナイト」というマンガにそのシーンがムーヴメントとして登場してきたし。
この動きは、関西発で全国に広がっていきます。

 まあ図式的に行くと、この頃の関西では僕の5から10歳上の人たちがじっくり活動し始めて、僕らの3歳くらい下の世代がヘヴィ・メタ・ブームを作ってたって様子ですね。僕らの世代は、なーんかこの頃一番中途半端だったと思います。はやりものを追ってったようなバンドが多くてね。自分も含めて。なーんかホール&オーツが世間で大人気で、そんな音が東京から聞こえてくるし、MTVではMジャクソンやカルチャークラヴやなんやかんやで、全国的に見たらカラフルなロックやPOPが出てきた時代でしたけど、僕はホント商品になっていく音楽・商品になっていくバンドが、なーんかウソくさく思えてきてたのでした。

 そんなトレンドに拍車をかけたのが、MTVという「システム」でした。 

 70年代後半から、アーティストのプロモっていうのはありました。でも、たいていはライヴ映像だったのです。有名なのはイーグルズの「ホテルカリフォルニア」のライヴでしょう。あんな感じが大半で、僕らが海外のバンドのヴィジュアルを知るのはそんなものしかなかったのです。あとはコンサートかな? ところが、81年くらいからは、まずイギリスのニュー・ウェーヴと呼ばれるバンドのヴィデオクリップがガンガン出てきます。これがまた、斬新な映像が多かった。いわゆるチープ・シックというか、低予算のセンスのみ勝負なんやけど、そのアイディアは「はっ」とするものがたくさんあった。で、写ってるバンドは伝統的にそうなんですが完全に楽器を放棄してのイメージ勝負。 おお、オモロイな、ってのが初期。で、その手法をさらにダイナミックに展開していったのがアメリカでした。金と人材に糸目をつけず、思い切りゴージャスに作ってきだした。ここまでたった2年くらい。

 僕は世界中が一気に「ゲーノー界」になったよなあ、と思ってた。見られることは聴かれることよりインパクトは強いけど、本来音楽とは違う要素があるわけですから、この時点でPOPはしばらく変質したのです、85年くらいまで。一気にPOPを聞く人の年齢が下がったもんね、世界的に。当時のイギリスでは、カルチャークラブの主なファン層は小中学生の年齢です。そんなこと知らずに騒いでた日本のアホなメディアは、同時に世界的に起こっていた60年代回帰現象には、全く気づかなかった。

 きっかけは、アメリカでの80年末からの、モータウンレコード再発売でした。僕がアメリカにいった81年の夏のLAでは、ものすごいキャンペーンで、モータウンの60年代のオリジナルアルバムがほぼ8割くらい再発売でディスプレイされてたし、また、それを若い子達が買っていくんだ、目の前で。なぜ彼らが買うのか。それは彼らが好きな新しいイギリスのバンドやアーティストが、影響を受けた音楽としてモータウンを口にしたからです。 ちょうどそれは64年のビートルズアメリカで自分たちのルーツを話したように。ただ当時と違うのは、黒人音楽は白人がより買いやすい形でそこにあったこと。

 こんな動きはアメリカだけではなく、イギリスでも、オーストラリアでも起こってました。もちろん、日本でも。
日本でのキーパーソンは、一人は伊藤銀次さんでした。彼は大阪でごまのはえをやってた頃から、ブリティッシュの人として名をはせていたそうですが、80年代初頭に沢田研ニをプロデュースし、そのときにあえてジュリーに60年代イギリスのリバプール・タッチやロカビリーものを歌わせました。それはちょうどアメリカでのストレイキャッツ登場とリンクしてたし、すごく新鮮に聞こえました。もう一組はノーバディ。この、矢沢永吉のブレーンの2人は、リバプールサウンドフリークです。彼らの作るサウンド・曲が、当時のイギリスのニューウェーブのバンド達と不思議にマッチしてたのは、どちらもルーツが62年から5年くらいのリバプールサウンドが元にあったからだと気がついた僕は、「これはオモシロイことが始まってるのかも」と思ったのでした。

 決定的だったのは、佐野元春のNHK−FMでの番組でした。彼は、盛んにこの番組で60年代のロックをかけたのです。それも自分のバンド「ハートランド」がイメージできるような、イギリスのかっこいいR&Bがかったバンド達を。これには僕も興奮しました。ラジオですからリアクションがあります。若い人たちがどんどん彼の番組でロックの子になっていく感じがありましたよ。彼はまた、優秀なデータリサーチ・マンですから、整理・統合してロックンロールの歴史をかけていきました。それこそ米・英、年代順
などにして。 この番組でロックンロールのもつ「マインド」の部分に気づいた人は多かったと思います。

 さらに。博多からのいかしたビートバンドの登場も、このころありました。博多は古くから、大阪に次ぐ音楽都市です。有名なバンドや人を、大阪より多く輩出しているまちから、サンハウス周辺の人脈から数々の60年代マージービートをルーツにもつバンドが一挙に出てきました。モッズが有名ですよね、この中では。ほかにもいいバンドがいっぱいありました。彼らは、日本の貧しいジャーナリズムに「めんたいロック」などと言われてましたが、ブルーズベースの太いロックを身上とする人たちが多かった。

 もしも日本のジャーナルストたちがこのときの世界的な60年代回帰現象に気づいて、ルーツ・ロックを掘り下げることをやってれば、今、日本から世界に通用する人たちが出ていたと思います。それくらいのチャンス。一度世界のPOPが原点に返った時期だっただけに、惜しいなあとおもうのですが。ちなみに、関西のミュージシャンは、もっともっと深いルーツに根ざした音楽をやろうとしてたので、2001年でも、ほとんど全員現役なのです。 まあ、見ているところが違うんやね、と、僕は誇らしく思うのです。