録音物という複製

 みなさんは「クロスロード」という、ロバートジョンソンの幻の曲を探す旅に出かける少年の話を映画にしたものを見ましたか?その映画の冒頭で、ロバートジョンソンがレコーディングするイメージが、かなり精緻な時代考証の元、出てきます。
 
 あの時代から、レコーディングはミュージシャンの「夢」でした。自分の声が複製物になって、誰かに届く。しかも古びない。これはやはり、実にすごいことだと思います。記録物はまた、時間を切り取ることだとも思います。写真も、レコードも、映像も、生々しく時間を切り取る。僕らはその時間芸術を楽しんでいるわけです、言い換えると。

 表現するほうはどうか。これはやはり、緊張します。さっき書いたように、「そのときの自分が残っていく」ワケですから当たり前です。だから、その緊張を和らげるために、音楽に限って言えばいろんな方法が用いられます。例えば、スタジオにいい香りの残る花や飲み物を持ち込んで来る人がいたり、友達とわいわい言いながら、歌を録音したり。ミキサーとたった二人で歌を録音したり。照明をろうそく1本だけにしたり。 そうまでして、最高の時間を作りたいということでしょう。

 スタジオレコーディングには、たくさんのマジックがあります。例えば、いまや音程が微妙に狂っていてもなおしてしまえるし、同じ歌詞を何度も歌う必要もなく、一番のブリッジが良かったら、そこをコピーして2番のブリッジにはめるなんて、当たり前に出来ます。これは演奏も同じです。音楽の録音現場は、デジタルテクノロジーが一番劇的に導入されている所でもあるのです。 特にSMAPやV6ファンのあなた、ヘッドフォンで彼らのCDを聞いて御覧なさい。ここに書いたことがわかります。

 でも、僕も含めて、そんな切り貼りで作られた音楽に嫌気が差している人たちが多かったから、90年代のアンプラグドがあり、アコースティックな音楽が再び盛り上がっています。ここでいうアコースティックとは、「イントロからコーダまで、ちゃんと演奏しきる音楽」のことです。 それは、少なくとも僕より10歳くらい下の人たちまでは、音楽が時間芸術だということを知っているからです。 

 他方で、クラブシーンでは、切り貼りの音楽が今でも盛り上がっています。それはそれで面白い。なぜなら、出来上がったものを破壊し、自分のセンスで再生するというのも、表現の手法としては「あり」ですもの。POPなものなんて、むしろその手法の歴史でもあるからね。 でも、こればっかりじゃ、つまらない。プラスティックなものが多すぎるのは、つらい。

 まあ、お化粧ばりばりのゴージャスな美人、というのがレコードですね。で、クラブでの音楽はクローン美人。それらの対極にあるのがライヴである、と。作るほうも受け取るほうも、そのどれをも楽しいと思えたら、僕はいいと思います。

 僕? 僕は、音楽もナチュラル・ビューティってのが好きですが。

 あれ? これって日本のロックと関係ない? いえいえ(苦笑)。



 このころ、僕は音楽をいったんプレイしなくなってました。で、結構いろんなモノを沢山聞いていたように思います。京都に住んで、沢山人と知り合う仕事をしてましたが、そんななかで知り合った当時大学生の女の子から、日本のロックの新しい流れを教えてもらいました。 インディーズです。

 あれは、いつやったか。多分83年くらいかな。尾崎豊のデヴューのことですけど。僕と友人でやってたバンドは、その頃同じレコード会社で、僕らのDが尾崎豊のデモテープ聴いてて、「こいつって、いいよ。なにか、昔にあったピュアさを感じるんだ。」って言ってたら、ルイード(新宿)あたりから出てきていきなりバーっと高校生あたりから人気が出て。僕は正直に言って、結構冷静にしていました。「フーン。」って感じかな? というのは、そのときはまだ、新しい無垢な世代が、ひょっとしたら僕らよりも歌に「ライフ」を求めていたことなど知らなかったから。

 時間を戻して。86年にその大学生のこと知り合って、彼女が「ブルーハーツって、知ってますか?」といってきたので、いいやと言うと、ちょっと聴かせてくれたのでした。それはカセットで、完成品がカセットしかない、その1本でした。だから、完全に複製の複製くらいにテープを扱っていた僕は、ぞんざいにデッキから出し入れして、彼女にひどく叱られました。「大事に扱ってください! それは1000本しかないんです!」ってね。 「へ? これって、自主製作?」「今は、インディーズって言うんです。」
というやり取りがあって、とにかく聴いてみました。

 ひどい音。っていうか、これ、ラジカセでとった弾き語りちゃうのか。って思っていたのですが、そこで歌われていた世界に、僕は一気に弾きこまれました。曲は「チェインギャング」。つたない演奏とヴォーカル。その頃世間に出まわっていた完成度がすごく高い音楽が当たり前だった僕は、まるはだかの歌と
無防備だけど純粋な、まさにロックな歌詞に、ほんとガ−ンときました。 「ふーん、ええやんか!」と思わず言ってたもんね。 で、話を聴いてみると、こんな活動してるバンドやシンガーがすごく多い、と。
中には1万枚以上アルバムを売って、メジャーデビューしてる人達もいると言うことでした。

 このときに僕がブルーハーツの音楽に感じたのは、僕らがかつてフォークやロックにもらったものと同じモノを、彼らはパンクロックやブルーズからもらっているってことでした。そして、それをストレートに歌詞にしている。まさにそれは、あの70年代にすごい数で登場したバンド達のように。 そうか。また日本のロックが活気付いてるのか、ってね。その元になっていたのが、さっき書いた「無垢な世代」の登場だったと、今では思います。

 80年代の初頭から、音楽リスナーの環境が激変したことは、前回までに書いた通りです。ひとたび音楽を受け取るだけの立場になってみると、ライヴはすごい本数だし、MTVはあるし、TVでも洋楽はチャート番組になっているし、ニューミュージックはもはや演歌をチャートから追い出す勢い。音楽雑誌の創刊も相次ぎ、情報と若いやつら向けの音楽は産業基盤を整えて、どんどん「売られる操作」をされていきました。 もう、僕らはかつてのように、情報をさがしに行かなくても、出来合いの音楽であればすぐに聴けるほど、環境が変わりました。でも。そうして売られる音楽は、ただのエンタテインメントでした。「心を揺らして自分と向き合う」ような重さを持った音楽は、なかった。

 他方で、ほぼ今僕らが受け取っている生活環境が出揃った80年代初頭は、都市部では子ども達の個人化がどんどん進み、部屋にいる割合が多くなってきた時代でした。彼らは、自室で高校までを送った後、突然大学や社会に出て、他者とのコミュニケーションに苦しみ始めます。言葉がより直観的になってきたのもこの頃です。 そんな彼らを癒し励ます歌が、本当になかった気がします。そこに登場したのが尾崎豊
やインディーズのバンド達の、「心をゆらす」歌でした。苦しんでた若い奴らは、これらの歌に飛びつきます。それこそカセットだけの作品でも、ダビングされつづけ、やがて全国に広まっていき、それに注目した輸入盤屋さんが彼らの作品を置き出しました。 先のブルーハーツの場合、新星堂というレコード屋さんで販売が始まったとたん、ものすごい注文があったといいます。

 僕はこの頃(83−7年)に聴いた日本のロックの中では、ストリート・スライダーズとブルーハーツが印象に残ってます。単に好き嫌いのレベルですが。スライダーズは、2枚目くらいからのハリーの作る歌詞世界が、いままでのロックの歌詞よりシンプルで深い点で、いいなあと。 ブルーハーツは、やっぱりヒロトマーシーのコンビが、ロックの永遠のスタンダード。ギターとVOが仲良くライヴァルってのがやっぱりカッコイイ。こいつらはホント下手なんですが、正直で強い言葉がとてもさわやかだった。ブルーハーツは先ほどのようなカセットでの作品が数本続いた後、メジャーデビューし、ブレイクします。
スライダーズも、独特のスタンスでその後のシーンにかかわって行きます。

 ボウイというバンドは、80年代の日本のロックを象徴するバンドになりました。皆さんの方がこの辺は詳しいとおもうけど、彼らの成功のし方が面白いので改めて取り上げると、彼らはいったんメジャー・デビューして、直後に事務所もレコード会社からも出てしまいます。で、ライヴを繰り返しファンを増やしながら、80年代後半には大成功を収めました。その大きな要因に、彼らを支援した2つ目の事務所が、なんとユイ音楽工房という、70年代前半にフォーク全盛を作った事務所でした。 同じような大成功は、もう一つあります。アリスで成功したヤングジャパンという事務所は、佐野元春の事務所でもありました。その後はいくつかのグループに分かれたみたいですが。

 そう。スタッフの世代交代が80年代の前半に始まり、それと同時に支援する音楽もフォークからロックへと移行したのです。このシフトが80年代の中盤にある程度終わると、それと同時にロック・アルバムのメガヒットが出始めました。これは、それら事務所が強力なコンサート基盤を持つ地方のイベンターとのつながりが深く、さらにレコード会社に対してもアーティスト側としての発言権を持っていたことが、プロモーションに有利だったことはもちろんですが、なにより資本が手元に潤沢にあることが、ロックバンドの運営でも「はじめから大きなことが出来る」環境を生んだのでしょう。

 スタッフの世代交代は、製作サイドでも同じことで、この85年以降にアルバムなんかのクレジットで懐かしい名前を見つけることが多くなって行きます。たとえば佐久間正英さん。伝説のバンド「四人囃子」のメンバーだった彼は、おもにバンドのプロデュースを沢山手がけて行きます。はじめからロックをプレイしていた人らしく、彼のプロデュースは、バンドのカラーを壊さないで個性を浮かびあがらせるやり方で、とてもいい感じでした。 

 巨大なムーヴメントであったYMOは、80年代中ごろにいったん「散開」します。YMOがまだあった頃から、ユニークなソロ活動をしてきた3人ですが、坂本龍一はとくに映画音楽を通して世界に名前を売る音楽家になっていきます。彼のラジオ「サウンド・ストリート」には、シンセサイザーで音楽を作る人達のデモテープが沢山送られてきて、そんな中から高野 寛のようなミュージシャンが育ち、それをユキヒロさんがピックアップして世に出すとか、細野さんのYENレーベルから次々と面白いミュージシャンが出て来たり。ピチカートファイヴもこの辺から出てきました。

 
 あの頃は、時代全体が非常にアッパーな空気で、人々はお金の使い方や残し方の話に夢中になってました。そう。バブルの始まりです。それと、いよいよCDでのアルバムリリースが本格的になってきて、もうLPリリースが消えるのは時間の問題になってきました。さらに、これがすごく重要なことなんですが、
あらゆるジャンルの音楽がCD化されて再発売され始めました。このことで、前回に書いた音楽の世界的60年代回帰の傾向は、拍車がかかります。まずは86年くらいからのアメリカでのCD再発売で、ロックの名盤が出始めました。そのことで、たとえばキヨシローがいってたサム&デイブのホールドオン・アイムカミングを、CDで買えるようになり、そのかっこ良さにぶっ飛ぶ奴らが若いこの中に出てきました。それはブルーハーツみたいな若いバンドマンたちも同じで、パンクロック以前のルーツロックをさかのぼって聴いていき、現在のハイロウズでは豊かなバックグラウンドに裏打ちされた骨太なロックを聴かせています。

 個人的に嬉しかったのが、この時期以降のCD再発売で、たくさんの新譜当時は買えなかったアルバムをCDで買うことができたこと。これらの再発売ものの初期にはそんなことはなかったけど、2、3年後つまり80年代終わりくらいからの輸入CDには、さりげなくボーナストラックが入ってて、すごく嬉しかったり。当時の僕は、もう30歳近かったけど、そんな層の音楽ファンがCDを買いに行くことで、ますます過去のアルバムが発売されて行きます。

 そしてついに。日本の黎明期のロックがまとまった形で発売され始めました。