はっぴいえんど という実験

ykawabata452004-09-27

 全くの偶然なんですが。この間、「音楽王 細野晴臣物語」を何回目かで読み返していました。ほんの読み返しって、ある特定の事を知りたかったり、その向こうにあるムードみたいなものを呼び戻したい感覚のときってありますよね?その時はまさにそれで、あの本の中にある「戦後、昭和、日本家屋、土」といったムード、匂いを読みたかったのでした。

 で、今日、本屋でユリイカの「35年目のはっぴいえんど」という大特集を買ってきました。ユリイカはご存知の方も多い、詩歌を扱う本です。ですから、当然、言葉に関するこだわりを持ったはっぴいの特集になっていそうです。まだ読み終えていないので、全容はわからないですが、冒頭の松本 隆と町田 康の対談だけでも、僕は凄く面白かった。松本 隆がはっぴいの詩人という役割を演じながら彼の中に形作られていった「意識」。それは、ロックという、日本人という意識だったようです。その続きは、細野さんの、今まで誰も語ってくれなかった歌詞について対談形式で話されているような感じで、そのテーマだけでも僕は興奮しています。やった、ユリイカ

 例えば、うーん、だれでもいいけど、民生くんや山崎まさよしでもいいけど、彼らの歌詞世界と松本 隆がはっぴいでやった世界構築は、まるで違います。いい悪いじゃなく、違います。「風街ろまん」の歌詞を読んでもらえれば一目瞭然ですが、はっぴいはそこで「街」を感情移入を極力抑えた形で、描写していきます。街を見る視点が、第三者であったり、よりどころのない「僕ら」という複数であったり。その事が、聞き終えたあとに、人のエネルギーの薄い静謐とした土と瓦屋根の「都市」を想起させます。この「都市観」が、当時24歳くらいだった松本 隆の、望ましい都市イメージであったのだと思います。

 対して、さっき書いたこのごろの人たちは、より音楽的に言葉を使うし、滑らかです。ただ、内容は凄く個人的で、常に一人称の世界が前提のようです。その事自体は全然問題ではなく、むしろ個人的な歌はブルーズがそうであるように、必然なんですね。でも、それだけじゃ面白くないとは思いませんか?

 昔の一戸建ての日本家屋=昭和30年代までに建てられたもの=は、木造2階建てまでで、基本は木と紙と土で出来ていました。庭は、土でした。道路との境は、垣根と呼ばれるひくい木の植え込みでした。屋根は瓦屋根。そんなうちで暮らす人々にアメリカが入り込み、電化が進み、車での移動が進み、家族皆が部屋を持ち・・・。はっぴいえんどのメンバーは、思春期にそんな変化を体験してきています。日本の変化をね。幸いかどうか、終戦直後に生まれた彼らは、戦前までの日本の精神風土を嗅ぎつつ、西洋化が徹底的に推進されていく真っ只中で育っただろうし、むしろ西洋文化を「先進のもの:善いもの」として捉える気風の当時の東京という都市で、その変化の激しさゆえに生まれた拒否を、迷いとして何かで残しておきたかったのではないかと思います。写真がそうであるように、徹底した写実は大きなメッセージを残します。「風街ろまん」の写実は、そういうことじゃないかな。

 「風街ろまん」は、今や「日本語ロックの原点」とよく言われます。でも、中学3年生の冬にリアルタイムで受け取った僕は、そんなことよりもサウンドのかっこよさや新しさ、それに歌詞世界の不思議さに惹かれたのでした。あ、それと、あのアルバムが持つへんな熱、ね。これらの印象は、時とともに当然変わって来て、実はもっと大きなメッセージが作品には隠されていたし、松本 隆は意図してそうしていたことが後からわかっていきました。でも、あえて言うなら、「風街」はオンリー・ワンの作品で、空前絶後だと僕は思う。だって、あんな世界はその後今まで、誰も作り得ていないし、日本人のあり方への批評精神を結果的に持ち込んでしまったロックなんて、やっぱないよね。だから、比肩しうるアルバムは今後も出てくるだろうけど、超えるとか超えないとかは無意味です。孤高のアルバム。

 本当はもう少し違うことを書きたかったんですが、その事はなにもはっぴいえんどに絡めなくとも書けるので、また今度にします。ああ、最後に。はっぴいの事、気持ち悪いって人多いですが、僕はそれ大正解だと思います。ロックという音楽の切り口で見れば、あんな気持ち悪いバンド、そうないから。はっぴいのファンに「心情左派」が多いことでもわかるように、あれは音楽というより「実験」とか「思想」と考えると理解しやすいから。