1995−7 

 何度目かの萌芽

 久しぶりの年代別を書こうと思います。長く年代別記述をサボってたのは、いくつかの理由があるのですが、96年以降は、僕もネットやバンドやその他で忙しかったので、時間が経たないと見えてこないことが多かったことが一番大きな理由です。これを書いているのは05年の2月ですから、やっぱり時代を俯瞰するためには10年くらいの時間が必要だということですね。

 さて、前回は、ロックの世界の世代交代と、70年代までの音楽の遺産を上手く消化した「ロックの子供達」の登場を、ウルフルズを例にとって話しました。ウルフルズ、やはりここ数年の活動全般を見ていても、いいバンドです。ロックがロックンロールと呼ばれた時代から持っている初期衝動を失わず、見事に自分たちの作品に残しているもんね。

 今回は、もう少しこの90年代中期を見ておこうと思います。それは、10年後の現在から見て、もしかするとこの94年から97年というのは、その後のシーンを作り上げるような人・出来事・モノが出てきた時期ではなかったかという思いがあるからです。

 まず、人。斉藤和義が93年、山崎まさよしが95年、スガシカオが97年に「メジャー」デビューしています。ということは、それに至るライヴを行えるシーンが93年位には関東でもあったということですね。この3人が際立っているのは、セルフ・プロデュースのチカラが相当高いという点です。斉藤和義も多分そうだと思うけれども、後者2人は間違いなくドラムまで含む全楽器の演奏イメージまでもって曲を作っているし、実際、初期の段階から自宅録音でマスタリング一歩手前まで仕上げてCDにしているもんね。簡単に言うと、「音楽の基礎力が相当高い状態でのデビュー」です。

 また、3人とも過去の日本の音楽を、ライヴハウスレベルで沢山体験していたし、そこからの影響を素直に自身の音楽にも出していましたから、僕らのような70’Sを実体験したようなかつての音楽ファンにも「ん?」と引っかかることが多かったのです。実際、僕は斉藤和義の何曲かに、かつての高山 巌さん(ソックリ!)を思うし、山崎まさよしはセロリのシングルヴァージョン聴いた時、「なんでリチャード・ティーがケンバン弾いてるんや」って思うくらいスタッフな音でびっくりしたし。

 それとUAの登場です。デビュー曲はよくFMで聞くともなく聴いていたのです。その時から、こんな曲が当時の若い子達に支持されるようなシーンなんやなあと漠然と思っていたのですね。つまり、フリッパーズ・ギターの二人あたりが中心になって種をまいたクラブ文化が、東京や大阪を中心に成熟してきていて、そのナカミはレゲエ・HIPHOPスタイルを中心にする流れと、70’S前半の黒人音楽のグルーヴを中心にする流れがあることが、UAやサクラたちが、シーンの表面に出てくることで見えてきたのでした。

 それにSMAP。彼らの特大ヒット連発期だった95年〜97年、その作品をサポートしていたのがなんとNYCの一流ミュージシャンで、バックアップミュージシャンだけでCDを出し、それすらも売れるという状況も生まれました。彼らは、70年代に一世を風靡したスタジオマンたちで、その頃に音楽をしっかり聴いていた人たちにとっては、まさに夢のようなメンバーでしたから、世代を超えて売れたわけです。

 これらの流れから、僕のような当時30歳代後半〜40代前半の世代が、もう一度日本の音楽シーンに興味を持つ現象が、はっきりと生まれたのです。わかりやすく言うと、山崎まさよしやスマップやUAサウンドは、かつての「僕らのサウンド」であったのです。

 さらに。この90年代中ごろの面白さは、ストリートにもありました。僕は詳しくはないのですが、HIPHOP文化は80年代中ごろに近田春夫いとうせいこうが日本語で始めて種をまいたのですが、その種は綿々と引き継がれ、高木 完・藤原ヒロシやスチャラダ・パー、電気グルーヴたちの数々の実験で、この頃にはラップは日本語でも音楽表現の一つになっていました。そこに、アメリカでのミクスチャー・ロックの爆発がかぶって、日本ではどちらかというとテクノよりだったHIPHOPが、レッチリのようなバンド+ラップ表現を行うバンドを、一気に生むことになりました。その動きの総体が、2000年以降のドラゴンアッシュケツメイシ、またライズたちになっていくのです。

 他方では、例えば80年代終盤からの長渕剛のコンサート会場では、会場前でアコギをもってナガブチのレパートリーを熱唱するファンたちが沢山居たのですが、自然発生的に、彼らが路上で歌い始めます。90年代初め、これも東京や大阪の都市部から始まっていきました。最初は、稚拙な演奏と誰かのコピーで始める人たちが多かったのですが、やがてオリジナルで達者なプレイを聞かせるバンドやシンガーがここから出てきます。また、東京には伝統的に「ホコ天」でのライヴがありましたから、そのノウハウで、バンドもストリートで始める人たちが出てきます。そしてそこから、「ゆず」や「こぶくろ」が登場することにつながっていきます。この流れはまた、日本全国の駅前をあるくかつてのフォーク少年・少女だった人たちに、再びギターをつかませるきっかけにもなりました。そう。ストリートフォークもまた、70年代音楽ファンが現在の音楽への興味をもつきっかけになっていき、98年くらいからのアコギ販売台数の急増につながっていきます。

 90年代前半は、マスメディア的には「コムロの時代」でした。80年代前半にTMネットワークで登場した時から、彼はデジタルビートを駆使して、自宅で音楽を作っていき、80年代中盤の渡辺美里をプロデュースし大成功を収めたあたりから、独自のスタンスで一大音楽コングロマリットを形成したことは、ご存知でしょう。彼の音楽は、かつて「ユーロビート」と呼ばれたディスコビートを下敷きに、ある程度ブラックな匂いを歌えるシンガーを配して、自身の曲を歌わせるものでした。このフォーマットは、オキナワのある歌謡教室に通っていた子供達を有名にするのに最適でした。その教室では、ブラックミュージックでの歌唱とダンス指導をしていたのです。そしてそこから、沢山のシンガーがコムロ・フォーマットにのって登場しました。

 このフォーマットの影響はとても大きなものがありました。ひとつは、ブラックの伝統的なうたい方を日本人がまねて使った曲がばかばかしくヒットしたために、コムロファミリーの歌い方が一つのスタンダードになったということです。05年現在でもそのスタンダードは生きていて、へんな節回しをつかって日本語を歌う若い子たちがどんどん出てきていますもんね。 また、70年代アメリカのディスコブームの時のように、細かいニュアンスの柔軟なビートを持った音楽が、一時的にせよ端に追いやられたこともあります。どんなグループも、キカイで作られたビートにのって出てくるのがコムロ流でしたから、同時期に水面下で動いていたヒップな音楽が出てくるのに少し時間がかかったような感じもあります。

 コムロ・プロダクトが、現在のシーンに残したものは、でも、いいこともあります。ひとつはスタイル・フリーということ。つまり、バンドを伴ってライヴしなくてもいいということであったり、ダンサー+シンガーでのユニット形式であったり、CD製作も自宅での録音でもいいということであったり。もう一つは、これは非常に大きい功績だと思うのですが、音楽土壌としてのオキナワを紹介したこと。アムロさんたちが世に出たことで、オキナワの音楽土壌の豊かさを知らしめたことは、オキナワにとっても、地元で音楽している人たちの自信につながり、以降、色んなスタイルのミュージシャンがここから輩出されることになりますもんね。

 ふう。こうやって書いてみて、僕自身わかったのは、この90年代中盤ってのは、やっぱり現在のシーンを作るきっかけとなる出来事がつぎつぎおこっていたのでした。前もどこかで書いたのですが、例えば90年前後のヒット曲のサウンドと、80年のヒット曲のそれを比べてもらうと良くわかるのですが、何のつながりもないのですね、それまでの日本では。ところが、この90年代中盤のヒットは、05年のそれと並べても、土台がそんな違わないのです。言い換えれば、この辺から日本のPOPは、いわゆるJ-POPと呼ばれる独自の進化を始めた気がします。進化、かどうかは良くわかりませんが。

実は、まだ書きたいことがあるのですが、また時間のあるときに追記しますね。