94年のターニング・ポイント

「1994年かあ・・・おれが37才なぁ。」って。「という事は、僕らの子ども達がCDを買うタイミングやなあ。」って。「という事は、もしかしたら僕らが犯人かあ?」って。・・・何の事か分かりませんね。エンカやエンカ的なものが、年間ヒット曲から消えた年を調べてたのです。

 ここでいうエンカ的なものとは、演歌歌手が歌うその手の曲はもちろん、一見POPバンドやロックバンドのにおいを持っている人たちの曲でも、例えばダウンタウン・ブギウギ・バンドのように、演歌的メロディや情念を歌った人たちすべてをさしています。非常に微妙な、もはやセンスとしか言いようのないラインですが、あくまで僕の感じるエンカ的なニュアンスと思ってもらえればと思います。ああ、断っておきますが、僕は演歌が嫌いなのではありません。ヘタなロックバンドの歌よりもひばりさんたちの世界の方が雄弁なことがありますもん。ただ、前から気になっていたのです。「日本的なメロディが、いつから消えたのか」が。

 僕が調べたのは、オリコンの年間チャートではなく、もっと民間の認知度が高いサイト「ザ・20世紀」の、年ごとの流行り歌で見てみました。なので、厳密な話ではありません。だいたいいつ頃か、くらいに見てもらったらと思います。

 なぜ、そんな事をしたのかというと、特に90年代入ってから、はっきり言って「素晴らしい歌い手」が激減したから。80年代終わりまでは、確かにいたのです。そしてそれは、好き嫌い別にして、演歌を歌う人たちの中に沢山いたのです。で、彼らを支持する層が、まだ社会の中核にいて、確かな文化を形成していたのです。その文化は、いつ消えかけたのだろう。つまり、本当の意味での戦後歌謡文化はいつ終わったのだろうと、前から気になっていたんです。そして1994年にぶち当たったんです。

イノセントワールド(Mr. CHILDREN
<年間ヒットチャート1位> 第36回(1994年度)レコード大賞
ロマンスの神様広瀬香美)[作詞・作曲:広瀬香美
恋しさとせつなさと心強さと篠原涼子
空と君の間に(中島みゆき)[作詞・作曲:中島みゆき
Hello, my friend(松任谷由実)[作詞・作曲:松任谷由実

どうですか? 上の作品群。この中では篠原涼子のが、まーだ若干の演歌臭があるかな?マイナーメロディーと漂う雰囲気がとは思うものの、アレンジはユーロビートでね。 まあ、厳密な話とは思わないで読んでもらったら嬉しいんやけど。

この年は、面白いね、今からみると。インターネットのアメリカでのもの凄い盛り上がりが学者レヴェルから起こった年で、ネットスケープが会社になってる。WIN95の発売がアナウンスされ、ネットワークが謳われ出した年。日本でも、現代に繋がる新しい形の都市犯罪が散見され始めた。グリコ・森永、翌年はオウム心理教。まさに、ターニングポイント。旧い価値観が廃れ始め、新しい価値が台頭し始めた頃。たしか、この頃やったと思う。渋谷あたりのクラブ文化から、70’Sのブラックミュージックがリバイバルして、オリジナル・ラヴとかオザワケンジとかのソウル趣味が耳を惹いたのは。それにコムロ一派やね。

と、いったん背景を俯瞰してみて、言いたかった事に戻りましょう。うん。

ここにも沢山書いてきた事でもおわかりのとおり、僕や同世代の人たちは、昭和を抱えています。つまり、親の世代であった演歌文化を自分の中に抱えています。それは認めざるをえない。でも、70年当時に中学生から上であった人たちは、その文化をエスタブリッシュとして捉え、違う何かを作ろうとしてきたのです、音楽では。そして、大人になり、社会の現場に散らばり、家庭を持ったとき、僕らの子ども達は、演歌を知らない子ども達になった。彼らがCDを買う年齢になったとき、演歌はもうメディアにはなかった。当たり前や。メディアの現場のかなり上層部にまで、僕らの世代がいる状態になっていたんやからね。それがこの94年あたりの「市場環境」だったのでしょう。

うーん。迷っています。これ以上書いていくのは、かなりムツカシイ作業だから。何を考えているかというと、ここから先は、自分の中のエンカ的なものを時間をかけて消して行ったことが、果たして良かったのかという検証になり、ひいては、同じ事を大なり小なりやってきたこの国の歌文化全体の批判になるかも知れないと思ってね。

ここまで読んでくれた人にはお話しておきたいのですが、僕は現在(2005年)の日本のPOPシーンは、90年前後のそれと比べても、かなり健全だと思っています。やっと日本なりのPOPシーンが育って来た印象すらあります。あの薄汚いJ−POPとは別にね。ただね。最近、このエンカ的なものを筆頭に、ここまで来る過程でなくしたものも大きかった気がするのです。

今のPOP文化って、押しなべて「薄い」でしょ? 例えばお笑い芸人の基礎体力としての素養や見識は、アメリカやフランスのの同業者と比べると、無残なものがあるし、POP音楽の伝統性や連続性の無さもそうやし。文字文化はわかりませんが、なんだか文壇は鎖国が進んでいるような気がするし。例えばビートたけしのような人は、もう日本のPOP文化の中からは、熟成しないのではないかなと思うのです。それは、僕らがそれまでにあった文化を分断したことにも責任があるのかなあと思うのです。