75年 京都


 ここからは多分に自分の経験からみた話が多くなると思います。
僕は当時18歳で、大学生として京都にいました。いろいろなところで書いてきた体験は、すべてここから始まったと思うくらい、自分の音楽体験そのものがまったく新しい次元に入りました。

 当時の京都は、まだまだ学生の町でした。学生がかなりえらそうに町を闊歩していたという意味で。そんな人たち(学校に行かない学生たち)が生み出したのがブルース・ブームでありブルース・バンドでありライヴハウスであったのでしょう。「なんかおもろいことないか。」と、探したり作ったりしている人たちの多かったこと。そこに60年代からそんな新しい何かを探しつづけている人たちが加わって、独特の文化を待っていたように思います。ただ、本当に熱く連帯した季節は、70年代初頭に終わっていたようでした。学生運動はもう名残のようなものになっていたし、だから大学同士の連帯は各種のサークルにわずかにのこっている程度で。

 日本のロックは、75年には新しい局面に入っていました。前回書いたように、地方のすばらしいシーンが、いくつかのバンドのレコードを作らせるような盛り上がりを見せてきたのです。印象としてまず動いたのは、ほとんどマイナーレーベルと呼んでいいようなレコード会社でした。徳間音工・トリオレコードなどがそれにあたります。彼らの面白いものを探す目があったので、新しいバンドがどんどん発掘されることになったのです。

 たとえばサウス・トウ・サウス。すばらしいライヴの評判は、75年時点ではもう全国区でした。でも、どんな風にアルバムにすればいいのか、誰も考えられなかったのです。それを、まずアコースティック・セットの部分をスタジオで曲から作っていくなんていうとんでもないやり方で行い、半年もしないうちにライヴ盤をバンドの部分で作った。こんなこと、メジャーではできない発想です。もちろん契約のこともあったのでしょうけど、受け取った僕らは本当にびっくりしました。「一番いい形でデビューしたやんか!」って部分でね。そんなことができるレコード会社があるんやなあ、と思ったのです。徳間はその後もロックを熱く作っていくレーベル「バーボン」を立ち上げたり、パンク系バンドの発掘を行ったり、PANTAの「マラッカ」という名盤を送り出したり、レイニーウッドを送り出したりしていきます。

 そんな動きの中には、本当にマイナーレーベルもありました。大阪で大塚まさじと阿部 登が作ったオレンジレコードです。ここからはまさじさんはもちろん、ソー・バッド・レヴューや金森幸介中川イサトさんなど、関西ゆかりのミュージシャンのアルバムがどんどん出てきました。

 東京のなかにも、同様な動きがありました。エレックレコードはその最たるものです。ここは70年からの老舗レーベルでしたが、経営者が浪曲レコードの大全集(百ウン十枚組!)をつくって大赤字を出して、75年に倒産します。これは本当に残念でした。ここに集まったのが大滝さん・シュガーベイブ・チャー・泉谷しげるなどの、後のシーンを大きく変える人たちだったから。また、トリオのショーボートレーベルも、憂歌団吉田美奈子南佳孝などを世に出したマイナー・レーベルでした。

 これらは、70年代はじめに広がったカウンター文化をもろにかぶった人たちが、社会に出て「自分のやりたいこと」を職業としてはじめた結果だと思います。イベンターという職業もそう。僕の3つ年上の先輩が、キャロルの解散コンサートの運営をエーちゃん指名の元に手伝ってから、自分でイベンターを起こしたのもこのころでした。その名はサウンドリエーター。いまや関西では老舗のイベンターとして存在していますが、同時多発的に夢番地などもこのころ起こったのでした。こんな風に、かつては自分もプレイしていた人たちだけでなく、ロックやフォークに夢を持っていた人たちが「自分にできること」を通してそんな音楽にかかわっていこうとし始めたのです。そのことがロックを産業のひとつにしていくなんて、夢にも思わずに。

 今でこそ、音楽で食べて行くという選択も、人生にはあるということは割と認知されている感じではありますが、この当時そんな考えは「バカ」でした。だって、作ったものを売るその方法がないのです。ライヴツアーで広める? 全国で見た場合そんなに場は未だ出来てない。 レコード会社の宣伝で? どうやったら売れるというノウハウのない宣伝で。 作曲で食べていく? 印税なんて概念がまだ定着していない。とまあ、当時僕が親だったら、そういうわな(笑)ってくらい、産業基盤がないわけです。それでも次々とミュージシャンがデビューしてきたのは、どちらかというと回りの人たちの熱意が大きかったと思うのです。

 個人的には、バンドでいろんな大学の学園祭を回り始めて、そのなかで出会った「北 京一グループ」(後のソーバッド・レビュー)の演奏が今でも忘れられません。「カタツムリ」や「ストーン・ジャンキー」の、さめたファンクネス。僕にとっての関西黒人音楽の最高峰の演奏に、いきなり出会ったのでした。この年には、たくさんいい演奏を聴けました。夕焼け楽団・サウス・めんたんぴん・ティンパンアレイ。こんな布陣が日常的に聴けたのですから、ストリートシーンのバンドのレベルも、相当高かったのです。今でも僕は、この73年から80年くらいの、特に関西のシーンを越える音楽レベルを、日本のPOPは持ちえていないと思っています。達郎さんが一晩考え込んだという演奏レベルの高さに加えて、ライヴでの「やりきってしまう」熱さ。少なくとも、僕にはとても刺激的で、毎日でもライヴハウスに行きたかったもん。知らないやつらでも凄いっていう世界でした本当に。

 そしてユーミンがブレイクします。全国的には、この人のブレイクは後のシーンにとってはものすごく大きい意味を持っていくのですが、それはまた今度。