ありやまな、う!

 ・・・しかし、笑うわなあ。かおりさんからあるブツのお礼として有山さんのヴィデオ、いただきました。あいも変わらずマイペースな、最高なライヴです。

 僕はなんやかんやでこの人のライヴ、この20年ほどで10回以上は見てるけど、本質は全く変わってないわね。時々でバンドであったり、エレキ弾き語りであったりしたけど、その音楽の質はなーんにも変わってない。70年代にも数回見てるけど、マッタク同じやったし。会場が銭湯だったときも、数千人の野外フェスでも一緒。サスガに進行がタイトなオムニ形式の場合は、タバコとか酒はないけど、他のバンドはそれで普通やもんなあ。

 こうやって数年に1回とかでありやまさん見てると、ファンやとか音楽がどうとかやないんよね。「ああ、あのムードが来るねんなあ。」と思うだけ。いい音楽に決まってるし、場はいい空気に決まってるし。だから、そこに行きたいかどうかはその日の自分のノリだけ、みたいな。僕は有山さんたちの音楽で育ったし、あって当たり前の音楽なんで、不謹慎ながら、「いつでも聴けるわ」みたいな気持ちがあるな。

 「いつでも聴けるわ」というのは、でも、凄いことでね。お皿洗いながらでも、ヘッドフォンで集中してでも、車でも、全然いやらしくない音楽なんよ。アタマの片隅にかすかにいつも置いてある音楽で、CD聞かなくても好きな曲はアタマから取り出せるというレベルです。ああ、ごはんとかそんな感じ。僕と同世代で、今も音楽が好きな人の何割かは、僕と同じやと思うけどね。ちょっと集中したら、あの声やギターのタッチや小さなマーティンがふわっと浮かんでくる。で、多分にやにやしてる。 ああ、そうそう。有山くんとかキムラの話をみんなでするときって、みんなすっごく嬉しそうや。声が変わるもんな。それくらい、あの人って特別やわ。

 基本的に、PAもなにもいらない音楽。アコギとあのひとの歌があるだけの音楽。ただ、特別なのは、耳に入れながらも何か作業が出来る音楽。BGMにもなるんやけど、妙に気持ちが持ち上げられる音楽。例えば、凄く凹むことがあったときにかけたら、その凹ませる事柄が小さなことのように思える音楽。ラジカセでもオーディオでも楽しい音楽。僕はそんな風に思います。あえて「ほのぼの」とか書かなかったのは、あるひとつのムードだけが伝わってくる音楽じゃないし、いつでも聴けるけどいつ聴いても何か残す音楽なんで。

 人間性がにじみ出ているような、とかいう表現も、僕は違うと思う。ありやまさんって、彼の歌から伝わってくるような、それこそ「ほのぼの」した人じゃないと思う。音楽に対しては、本当に厳しい目をもってはるし、自分にも厳しいし。あの人の歌世界は、長い間でねり上げた芸風ですからね。この、もらったヴィデオの中でもBAHOとしての石やんが若い頃のありやまさんの話をしてますが、相当ストイックなところがある人です。僕、そんなところが好きですけどね。

 ・・・あかんわ。有山さんのことを書けないです、僕。なんか前からそう思ってたんやけど、実際トライしてみて良くわかった。自分の音楽の絶対基準の一つやからやわ。アコギの最良なプレイとか、歌詞やヴォーカルの理想とかの一つなんよね、自分の中で。それと、練習を絶対に人に見せないとかの、姿勢的なことも。 聴いたら数秒で分かると思うけど、オンリー・ワンやからな、あの人も。

NIPPON NO ROCK GUITARIST

ykawabata452004-09-29

 どうです、この素晴らしいジャケット。どうしてもこのジャケットを紹介したくて、これを書いているといってもいいでしょう。彼のストイックな肉体と顔つき。諦観と強い意思を感じるまなざし(であろう)。右手にはレスポール。シャツのようにも、サムライの着物の袖が引きちぎられたようにも見える衣服。ロングヘアを束ねているようにも、ラフな刈上げから伸ばすに任せたようにも見えるヘア。本当に音が聞こえてきそうです。

 このCDは、70年代の日本のロックギタリストの、様々なセッションを一人別にコンピしたシリーズで、この写真のは大村 憲司さんのもの。他に、山岸とか鈴木茂とかも出ています。ここ数年の「ギターマガジン」による、彼ら70年代のギタリストたちのバイオを丁寧に編んでいくいい仕事のおかげで、僕はあの時代のロックギタリストは、日本のロックの中で、恐らく一番とんがっていたんやろうなあと考えるようになりました。

 個人的に何人かを紹介しますね。順不同です。
まずは、やっぱり鈴木 茂。「はっぴいえんど」の冒頭のギター初めて聴いたときの衝撃は、今も残っています。はっぴいでの幾つかの名演のあと、ユーミンの「ミスリム」でのあのプレイ!が鳥肌モノでした。和音で作るあのフレーズたちは、なんと練習なしのほぼガチンコ一発ものでOKが出たそうです。なんと言う才能。他にも幾多の名演があります。コードの流れと聴こえてくる音で、瞬時にメロを考えてアレンジして弾くという、もの凄い才能ですね。

 次は大村憲司。赤い鳥のバックバンド「エントランス」時代から、ブルーズベースの先端のギターを弾いてはったけど、地力を見た思いがしたのは80年代初頭の小さなライヴハウスでの「ジョージア」とかでのギターでした。とんでもなく柔らかいトーンから、攻撃的なところに一瞬で飛べるひとやったなあ。勿論、歌うし、ギターが。

 多田 たかし。CAM'Sのギタリスト。何で今まで聞かなかったのかわからんけど、03年に初めてライヴで聞いてぶっ飛んだんです、多田サンのギター。60年代アート系の代表「裸のラリーズ」から、京都で日本のロックをずっと見ながら独自の活動をしていたので、あまり知られていないと思いますが、ブルーズベースながら、JAZZから中近東音楽までを取り込んだごっついスタイルです。考えられないフレーズが轟音で飛んでくる気持ちよさと、バラードでの「泣き」。現時点で、僕が最も好きなギタリストです。

 そして塩次伸二。ウェストロードのアグレッシヴさと「引き」のかっこよさも勿論やけど、ウタバンの見事さが近年際立ってきていると思います。もう、国宝モノのトーンで、つややかなギターを歌います。伸ちゃんは音楽の天才です。天才は努力します。僕はそれをシンちゃんで知りました。だって6時間くらい1人でギター弾きっぱなしとか見たもんね。

 石田 長生。なんといってもソーバッド・レヴューでの、ファンクギターとR&BとJAZZを自分なりに混ぜこんだ唯一無比のスタイルは、75年当時、衝撃的でね。普通、「ああ、この人はここからきたんや。」というルーツが、まあ30秒ほどで見えるんやけど、この人はわけわからんかった。体感してきた音楽全部をギターで弾いてきた凄味が、1時間程度のライヴが終わってから押し寄せてきた。同じバンドに、これもまた強烈な個性の山岸 潤史がいたんやけど、僕は石やんにぐーっといってしもたなあ。

 CHAR。衝撃の1STソロアルバム。すっごいリズムのいいやつ!ベックよりリズムがいい!ここまでロックギターと黒人のファンクギターを自然に身体に入れたヤツっていなかったもん。それまでの人は「勉強・研究」やったから。もう圧倒されて。今と同じくらいか、いや、当時のCHARはライヴでは今より弾きまくりやったから、もっとリズムが立ってたなあ。それとユーモアが音楽にある点もうれしかった。

 山下達郎。あんまり語られないけど、この人のリズムギターは日本で5本の指に入ると思うな。本人ヴォーカリストの意識が強いから、アンプに直結でコードを弾くだけやけど、このリズムの立ち方は、特に80年から85年くらいのアルバムでのリズムギターのグルーヴは、それだけ聞いてても踊れてくるくらいです。ソロもええんよな。黒人NYスタジオ系の、間が多い歌うソロを弾く。好きやなア。

 うーん。こんなところかなあ。勿論好みでのチョイスですが。ただ、こうやって書いてみるとよくわかるのは、それまでになかったスタイルを持ち込んだ人たちが多いな。彼らの音楽が、その当時画期的であったということにもつながるんやけどね。

 勿論、松原正樹とか今 剛のような凄腕ギターもいますが、彼らは「勉強系」ですからね。新味がなかったもんね、登場時には。時間がたっても印象が残る人といえば、僕は彼らだという事です。この辺、好み大きいから難しいね。

はっぴいえんど という実験

ykawabata452004-09-27

 全くの偶然なんですが。この間、「音楽王 細野晴臣物語」を何回目かで読み返していました。ほんの読み返しって、ある特定の事を知りたかったり、その向こうにあるムードみたいなものを呼び戻したい感覚のときってありますよね?その時はまさにそれで、あの本の中にある「戦後、昭和、日本家屋、土」といったムード、匂いを読みたかったのでした。

 で、今日、本屋でユリイカの「35年目のはっぴいえんど」という大特集を買ってきました。ユリイカはご存知の方も多い、詩歌を扱う本です。ですから、当然、言葉に関するこだわりを持ったはっぴいの特集になっていそうです。まだ読み終えていないので、全容はわからないですが、冒頭の松本 隆と町田 康の対談だけでも、僕は凄く面白かった。松本 隆がはっぴいの詩人という役割を演じながら彼の中に形作られていった「意識」。それは、ロックという、日本人という意識だったようです。その続きは、細野さんの、今まで誰も語ってくれなかった歌詞について対談形式で話されているような感じで、そのテーマだけでも僕は興奮しています。やった、ユリイカ

 例えば、うーん、だれでもいいけど、民生くんや山崎まさよしでもいいけど、彼らの歌詞世界と松本 隆がはっぴいでやった世界構築は、まるで違います。いい悪いじゃなく、違います。「風街ろまん」の歌詞を読んでもらえれば一目瞭然ですが、はっぴいはそこで「街」を感情移入を極力抑えた形で、描写していきます。街を見る視点が、第三者であったり、よりどころのない「僕ら」という複数であったり。その事が、聞き終えたあとに、人のエネルギーの薄い静謐とした土と瓦屋根の「都市」を想起させます。この「都市観」が、当時24歳くらいだった松本 隆の、望ましい都市イメージであったのだと思います。

 対して、さっき書いたこのごろの人たちは、より音楽的に言葉を使うし、滑らかです。ただ、内容は凄く個人的で、常に一人称の世界が前提のようです。その事自体は全然問題ではなく、むしろ個人的な歌はブルーズがそうであるように、必然なんですね。でも、それだけじゃ面白くないとは思いませんか?

 昔の一戸建ての日本家屋=昭和30年代までに建てられたもの=は、木造2階建てまでで、基本は木と紙と土で出来ていました。庭は、土でした。道路との境は、垣根と呼ばれるひくい木の植え込みでした。屋根は瓦屋根。そんなうちで暮らす人々にアメリカが入り込み、電化が進み、車での移動が進み、家族皆が部屋を持ち・・・。はっぴいえんどのメンバーは、思春期にそんな変化を体験してきています。日本の変化をね。幸いかどうか、終戦直後に生まれた彼らは、戦前までの日本の精神風土を嗅ぎつつ、西洋化が徹底的に推進されていく真っ只中で育っただろうし、むしろ西洋文化を「先進のもの:善いもの」として捉える気風の当時の東京という都市で、その変化の激しさゆえに生まれた拒否を、迷いとして何かで残しておきたかったのではないかと思います。写真がそうであるように、徹底した写実は大きなメッセージを残します。「風街ろまん」の写実は、そういうことじゃないかな。

 「風街ろまん」は、今や「日本語ロックの原点」とよく言われます。でも、中学3年生の冬にリアルタイムで受け取った僕は、そんなことよりもサウンドのかっこよさや新しさ、それに歌詞世界の不思議さに惹かれたのでした。あ、それと、あのアルバムが持つへんな熱、ね。これらの印象は、時とともに当然変わって来て、実はもっと大きなメッセージが作品には隠されていたし、松本 隆は意図してそうしていたことが後からわかっていきました。でも、あえて言うなら、「風街」はオンリー・ワンの作品で、空前絶後だと僕は思う。だって、あんな世界はその後今まで、誰も作り得ていないし、日本人のあり方への批評精神を結果的に持ち込んでしまったロックなんて、やっぱないよね。だから、比肩しうるアルバムは今後も出てくるだろうけど、超えるとか超えないとかは無意味です。孤高のアルバム。

 本当はもう少し違うことを書きたかったんですが、その事はなにもはっぴいえんどに絡めなくとも書けるので、また今度にします。ああ、最後に。はっぴいの事、気持ち悪いって人多いですが、僕はそれ大正解だと思います。ロックという音楽の切り口で見れば、あんな気持ち悪いバンド、そうないから。はっぴいのファンに「心情左派」が多いことでもわかるように、あれは音楽というより「実験」とか「思想」と考えると理解しやすいから。

1993-96 ロックの子どもたち

 
91年に衛星放送を受信できるようにして、それからの7,8年は、僕の音楽情報はFM802と衛星放送から聞こえてくるものが中心になった気がします。それまでは雑誌やストリートからのものが多かったのですが、特にFM802の試験放送から数年くらいは、まさに聴きたかったラジオの形態がそこにあった気がして、良くかけていました。BSのWOWWOWも、試験放送でサウス・トウ・サウスの再結成ライヴを生放送したりして、また、素晴らしい音楽番組「THE RECORDING」などもあったりして、良く見ていました。

 記憶に間違いなければ、94年くらいの日本のシーンというのは、そろそろ70年代に活躍した第一世代のミュージシャンが、アレンジャーやプロデューサーとして円熟してきた時代だったと思います。たとえば奥田民生をソロ・ミュージシャンとして奥の深いアーティストにしたのは、かつてマライヤというバカテク集団にいた笹路さん。 かれは奥田民生に、単にいい作品を作る以上の、音楽を職業にして一生を送るためのキャリア作りまで含めたものを伝授して行きます。数年後、その事が奥田民生のソロアルバムやパフィーのプロデュースという形になって現れます。

 かと思えば、あくまでミュージシャン志向の強いベテラン達のライヴが再び活発化してきたのもこの頃からです。僕はこの頃、大塚まさじさんや有山さんのライヴを数回地元で見ているし、まさじさんとは一緒にプレイもさせてもらいました。そのライヴのあとで、まさじさんは「何か最近、かつて僕等を聞いてくれていた人らが、新しい場を作って良く呼んでくれるんや。80年代よりやりやすくなってきたわ。」とおっしゃっていました。 このことでもよくわかるのですが、その頃の世の中は、バブルが完全にはじけたことが世間に広がって、かつて「イカ天」で登場してきたような、実体のないバンドがどんどん淘汰され、もっとしっかりした音楽を作っているミュージシャンが再び注目され始めた頃でした。…ちょっと面白くなってきてるんちゃうか、特に若い子達の音楽の聴き方が。 そう思い始めていました。

 また、90年代前半には、かつての名盤のCDでの再復刻が、もはやブームではなく、確固とした一つの世代の代表的音楽として安定してリリースされ始めました。URCやベルウッドの再発は、会社を変えながらも現在でも僕等に供給されていますものね。

 この頃の象徴的なバンドが、ウルフルズです。88年にオオサカで結成されたこのバンドは、95年から96年にブレイクするのですが、その異常なくらいの長い下積みというのは、バブル全盛時代にホンモノだからこそ相手にされなかったとしか思えないのです。 彼らを知ったのは、たしか95年。BS11の「真夜中の王国」かなんかで、最近ライヴハウスで盛り上がってるバンドとして紹介されたのでした。そのときになんと大瀧さんの「福生ストラット」を自分達の感じに変えて、オオサカストラットとしてトウキョウのライヴハウスでやってる。それが盛り上がってる。このことにちょっとしたショックを感じたのでした。

 かれらは、僕にとって、初めて「POPSを体験じゃなくきちんと学習してきた若いミュージシャン」でした。こいつら、ブルーズ・ソウル・ロックをヨーク知ってるなぁ、だれかすごいブレーンがいるのかなあと思いましたもんね。 そのときは、これ以降そんなミュージシャンが沢山出てくるなんてうれしい事になるとは思いませんでしたけど。
 
 94・5年といえば、クラブミュージックが盛り上がってたように思います。それはまさに70年代の黒人音楽、なかでも昔「ニュー・ソウル」と呼ばれたカーティスメイフィールドやフィリーなどのサウンドを起こしたものに近いグルーヴで、テンポも一時のような速いものではなく、70年代のタイム感のものでした。そんな中から日本でもソウルが大好きなオリジナル・ラヴみたいな人達や、フリッパーズ・ギターが浮上してきましたが、ウルフルズは彼らのまいたソウルムードを、もっとわかりやすく・決定的に、広い層の人達にばら撒いたといえるでしょう。

 音源をきちんと聞いたのが3RDアルバムでしたから、あんまりエラソウなことは言えないのですが、このアルバムを最初に聞いたときに思わず「ヤッター!」ってドキドキしながら思っていました。それは、ついに、ついに、大衆音楽としてロックの本質を消化した人達が「認められた」と思ったからです。 90年代に入ってから、もう日本のロックからはかなり遠いところにいた僕にまで聞えて来るくらい、「ガッツだぜ!」は売れたし、アルバムのほかの曲にも、ロックの最良の部分が凝縮されてつまっていたことが、すごくうれしかったのです。 はしゃいだり・ビビったり・気弱だったり・ブルーだったり。サウンドはFUNKだったりフォークロックだったりサーフものだったり。それら全部の音が、生き生きしてるし、若い。頭で考えた音じゃなく、踊りながらたたきつけるそれとして、彼らの中にあることが、とてもうれしかった。

 こんな風に、94年から96年くらいに出てきたウルフルズ奥田民生のソロアルバムに、僕は日本のロックが面白くなる予感を持てました。 みなさんはどうでしたか? 

次回は、もう最近のシーンになります。

番外編:素晴らしい音楽を、聴いた。


 それは、2000年12月、トウキョウ・青山劇場で起きた奇跡です。その日、ギタリスト・大村憲司さんの追悼に集まったミュージシャンが、彼に手向ける意味でのたくさんのパフォーマンスを行いました。その模様が、2001年3月にBS2で流され、僕はその場にいなかったことを悔やみました。

 ベーシックなユニットは、DR:沼沢 尚 BASS:小原 礼 KEY:中村 哲 PIANO:矢野顕子 PER.:浜口 茂外也 。世代を超えた、日本最高峰のミュージシャンの一角です。そのリズム隊が、アディッショナルゲストにメインを取らせて、進行していきます。

 1曲目。憲司さんの曲、LEAVIN’ HOME。 ここ数日、この曲のメロディーがアタマから離れません。憲司さんらしい、おおらかでストイックなメロディを、ゆったりと、しかし緊張気味に、朝倉さんがギターで歌います。故郷・神戸を想ったこのメロディー。アメリカンミュージックを身体に染み込ませた憲司さんらしい、素敵なメロディー。 この曲もかなり良かった。でも、奇跡は、まだ降りてこなかった。

 ・・・やがて、CHARが出てきました。憲司さんの亡くなった日にちなみ、「しし座流星群の夜」と名づけられた曲が始まりました。矢野顕子さんの弾く、フリーなアルペジオに答えて、小原 礼さんの豊かな、音数の少ないベースがきました。そして、CHARがハーモニクスでテーマを弾き始めます。沼沢さんのビートが載ってきます。もう、この辺で映像は必要なくなりました。4人の会話が始まったのです。

 いつになくトリッキーなプレイのCHAR。それは、会場の何処かで浮かんでいる、憲司さんを明らかにイメージしていました。まるで、彼がそばにいたら自分はこんなプレイをするよ、といわんばかりのギター。その思いを、この屈強なリズム隊は受け止め、それぞれがCHARに反応していきます。CHARが歌い終えたらすぐに矢野顕子が応じる。小原礼が答える。そんな、うなずいたり、遊んだり、はやしたてたりといった「会話」が、どんどん膨らんでいきます。そしてその曲は、奥行きをましていきます。

 どんどん高みに上るCHAR。答える沼沢さん。そして、エンディングに降りてきたCHARと、音で会話する矢野顕子と小原 礼。・・・魂を鎮めるような、エンディングです。 

 かつてボニー・レイットのバンドにいた小原さんが、ミカバンドの再結成のために帰国したときのプレイを聴いた時から、彼は僕にとって日本で3番目に好きなベーシストになりました。歌うのです。ベースが。それは矢野顕子さんも同じ。心で弾くピアノ。 その2人が、CHARのソウルフルな歌い方に反応し、凄い世界をこの曲で作り出しました。 

 残念ながら、この演奏はもう聞けないのでしょう。でも、こんな素晴らしいプレイをする人たちが、日本にちゃんといるってことだけで、うれしいじゃないですか。 この人たちの本気を引き出した憲司さんは、やっぱり凄い「人」だったのでしょうね。

番外編:最近のゴスペル・ブーム

 例えばミーシャ。あの歌い方は、紛れもなくBLACKです。ってひとが最近沢山います。本当に驚いたのですが、彼女はデヴュー曲が売れて初めて、ライヴをやったというじゃないですか。ということは、一見教会にでもいってたんかいなっていうあのブラックテイスト満載の歌い方は、実はストリートからでもなんでもなく、ただ単に「歌の先生が黒人だった。」わけですよね。

どんな動機であんな歌い方をしているのかは知りませんが、彼女はたとえて言えば「逆:金髪の落語家」なわけですよね。それもゴスペルシンギングのもつ意味なんて知らない、ただの節回しブラックなんですね。 がっくり、です。

 アヤドチエさんが、金沢でゴスペル・シンギングを教えているのをTVで見たことがあります。彼女はNYで本当のクワイアに飛び込んでいって改宗までして歌っていました。だから、本当にいいことを生徒さんに教えていました。それは、心で歌うという、歌の基本です。深く悩んだそうです、日本人の自分がゴスペルを歌うことに。そこを通過しないで宗教歌を追求するのは、僕は間違っていると思うのです。

 はっきりいって黒人文化にツバはいている状態でしょう。こういう場合、無知は悪です。知らないでは済まされないことって、あると思います。

 逆の場合。例えばアメリカ人が修行に京都のお寺に入っている光景を、僕は若い頃結構見ました。彼等は、その修行を実に丁寧にこなしていきました。それは、異文化に対する畏怖と尊敬があったからでしょう。日本人の僕らが見ても経典ってのは難解ですよね。漢字ばっかりで。でも彼等は、執拗にそこに書かれている本質を知りたくて、何十年も京都に住んでいました。

 日本のPOP MUSICに世界的ヒットがないのは、ここに原因があります。異文化への尊敬を踏まえた、自分たちのオリジナリティを作り出せない構造があるのです。もっとはっきり言えば、音楽産業にかかわる人たちが、異文化に対して無知なのでしょう。本当に少ない例外の「スキヤキ」やYMOの初期ものは、やはり凄いスタッフで製作された曲だし歌でしたもの。彼らのアメリカンPOPへの造詣の深さと自分の立っている日本との距離を踏まえた作品作りが、「例外」を生んだのですよ。

 僕は、宗教まで無視して上っ面をかすめとるようなやつらを、音楽家とは呼びたくありません。そんなのはただのジャンクだ。
上等な模造品でもありません。

 「心を奪いとられてきた。いつもそうだった。この国の白人は、私たちのイチバン大事な心を奪い取って、商品に摩り替えてきたんだ。」ナット・ヘントフというヒトの言葉です。 同じことを極東のイエローがやっているって知ったら、彼等はどう感じるのでしょう。 

僕が彼らなら、許せないな。改宗しない限り。神への音楽は、POP SONGじゃないですから。

番外編 幻のアルバムを探して

  

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 昔に関西フォークを聴いていた人なら、多分知っているでしょう、バンバンというバンドが3人だった時代を。僕は例のイチゴ白書よもう一度以前の、その3人組だった頃のメンバーで、今や演歌歌手のような?高山厳さんのソロアルバムを、実はもうかれこれ20年以上探しています。

 リリースは74年か5年。ほんと、この頃の日本のロックはいいアルバムが沢山出ていますね。ミカバンドの3RDやサウス・トゥ・サウスユーミンのコバルトアワー、幸介さんの「箱舟」、シュガー・ベイブ…。もっともっと。 でも、夏のある日に、当時のバンドメンバーから彼のアルバムのテープを渡されたことが、もしかしたら僕にとっての大きなターニング・ポイントではなかったかと思います。 素晴らしいアルバムでしたもん。

 バンバン時代も、彼の曲をやりだした途端、それまでとまったく違うバンドに聞えたくらい、彼のヴォーカルと作曲能力は高かった。それまではどちらかというと、嫌いなバンドだったのに、厳さんの音楽性を前面に出してきてからのバンバンは、ライヴでもすごく良かったようです。でも、それまでの先入観が僕にはあって、「ああ、あのバカ話が異様に上手いヤツがおるバンドやろ?」といって、アリス周辺のバンドが好きな女の子が折角教えてくれているのに、高校生のときはきちんと聴こうともしなかった。特に74年ごろは。若気の至り。

 彼がバンバンを脱退し、東京のソウルフル・ブラッズというバンドのメンバー達と創った1ST ソロアルバムは、バックメンのたしかな腕に支えられた演奏と、粒ぞろいの曲、それに厳さんの色気ある男っぽいヴォーカル(といってもシャウト系じゃない)が、なんとも言えない世界を作っていたものでした。特にアコギでの曲は、フォークくさくない乾いた世界を持った曲が多く、その高い音楽性にびっくりしたものです。

 もうテープもなく、だいぶん忘れかけてるんですが、斎藤和義が出てきたときにびっくりしたのは、厳さんの声にそっくりだった事でした。歌い方もあんな感じ。でも歌詞はもう少し男っぽい感じ。だったかな…。強烈さはないけど、染み込んでくる良さ。そんな音楽でしたから、すぐ廃盤になったと思いますが。気恥ずかしいくらいの甘いラヴ・ソングもあるのですが、渋い達観したような歌詞世界もありました。何曲かは未だにアレンジまでしっかり覚えています。

 最近特に、この、当時でさえ時代遅れな「照れ」を持っていた、無骨な男の歌を聴きたいなあと思います。もしこれをお読みの方で、厳さんの1STアルバムをお持ちの方がいらっしゃったら、ご一報いただければありがたいです。

本当にいいですよ。