売れる・知られる

 うーん。えらいムツカシイとこ突いて来られたなあ。 なのかさんから、「どうしていい音楽をやっている有山さんたちが世間に広まらないのか。簡単に説明せよ。」とのリクがきたのです。これはね、簡単だけど、日本の音楽産業が抱えている今1番大きな問題に関わるところもあるので、上手く言えるかどうかわからないけど、書き始めたからいけるとこまでいこかな。

 一言で言うと、流通経路が違うのです。現在、TVやメジャーなラジオ(AM・FMとも)で流れる音楽は、簡単にいうとカネのある代理店や音楽事務所がメディアに売り込んで、何らかの形で買ってもらって流れるわけです。その、買ってもらうお金は馬鹿馬鹿しいほど安いけど、オンエアで入ってくる利益を考えて、事務所はOKする、と。で、人気が出てヒットする。メディアが選択の参考にするのは、無難な質があるという点と、なにより売り込み量の圧倒的な多さで、メジャーからのアーティストが中心になるわけです。 かくして、メジャーな事務所・全国ネット・メジャーレーベルというメガヒットの構造が出来るのです。音楽雑誌という媒体も、全国的に販路を持つところになるし。

 もう1つの流れは、いわゆるインディーズです。これは、上に書いた流れの縮小版なのです。規模だけが違う。つまり、インディー・レーベルがローカルなFMやライヴハウス外資系のレコード店にプロモーションをかける。行ったとしてもそこまで。あとは、局地的にライヴの動員が凄かったり、スキャンダルなことが付いて来たアーティストが、現象としてニュース扱いで取り上げられる時に、メジャーなメディアに登場するわけです。

 基本的には、上に書いた2つの構造は、交わらないようにメジャーラインが仕組んでいます。自分達の既得権益を守るためにね。 ・・・と、ここまで書いてきたところで、ブレイク・スルーはネットでできるやん、って思った人もいると思います。ところが、ネットはここ数年のブログ大流行でも分かるように、非常に小さなコミュニティが無限に出来るメディアになりつつありますから、結局インディーな動きになるようです。 CSなどの衛星放送系もそれに近いかな?視聴者がミニな規模やから。

 構造はこんな感じ。ただ、ここに、アーティストの利益が絡んできます。まず、メジャーラインの場合、想像できるでしょうがアーティスト還元は非常に少ない。経費が莫大にかかるわけです。ところが、実はインディーズの場合、CDのペイライン(損益分岐点)は非常に低く、なおかつ、ランニングコスト自体も低いのです。なぜなら、始めからカネはないからすべての製作プロセスが安いから。それに、ライヴも大規模会場でやる予算は無いかわりに、小さなところでも経費が安い(バンドなしとか、マネージャーなしとか)から、アーティスト還元率がわりと高い。

 さあ、ここからはアーティストの選択ですね、だから。古くから歌っている知名度の高い人は、ガンガンライヴハウスを回ったほうが、自身への還元率は高いのです。そこそこ動員はあるからね。そこに会場でCDを販売すれば、おおよそ2000枚以降は全部利益でしょうから、日銭は入ってくるし。 でも、全国的にいっせいに知られる仕組みは、残念ながらないわけです。

 「知名度が高くて、音楽以外は人がやってくれて、でも不自由になるのか。それとも、そこそこ食べれて、全部自分でやって、ある程度自由にやれるのか。」・・・ながく音楽活動をしている人たちは、今まで自分が作ってきた行商ルートがあって、そこをたどっていくことで着実に知名度をあげ、そこそこ食べれるような状態を維持したいと思うだろうなあ。自由はある程度確保できるから、表現に水を差すバカも少ないだろうし。

 可哀相なのは、メジャーで売れてしまった音楽が好きなアーティストたちで、彼らの後ろには、事務所スタッフやレコード会社の担当社員、地方のイベンターたちの生活があるわけです。だからどうしても製作物は本質的に「売れつづける」ことが望まれます。もちろん、メガヒットしてると、印税がアーティストには入りますから、ある日突然家が買えたりベンツが買えたりしますが、何十年というスパンで見た場合の収支はどうなのか。これは分かりません。ハイリスク・ハイリターンが付きまとう。

 で、今後もこの2部構造が続くのか。今、必死になってネット配信の可能性を模索している音楽業界ですが、やっぱり世界規模でマーケットを考えられる環境にいる=メジャーにいる人たちの中からしか、その答えはでないでしょう。それか、例えば株屋さんのような、業界と市場のニーズを秒単位で睨んでいる視点をもった音楽好きが仕組みを作らないと、土台からのひっくりかえりはムツカシイ。僕はそう思う。

 だとすると、バイヤーである僕らはどうしたらいいのか。これははっきり「ストリートに出よう。ライヴに触れよう。」ということです。幸い、ネットの普及やPC設置の蔓延で、すべての業態で、ある世代以上には「もうライヴしかない。なんにせよ、ナマのパフォーマンスがいいものしかだめだ。」という認識が生まれつつあります。ライヴ形態が貴重で最後の価値判断になって来ているのです。 だから、2つ目の流れに当てはまるミュージシャンが好きな人は、どんどん友人をライヴに連れて行く。それと自分のブログで書く。つながりを作る。人気が出てきたら、メジャーへの選択が出てきますが、それは彼に任せたらいい。幸介さんのように、廃盤になることが少ないMIDIレコードというメジャーとインディーを併用する人もいますからね。

・・・どうです? これらの事をヒントに、みんなの好きなミュージシャンの周辺を考えてみるのも、たまには面白いと思いますよ。

94年のターニング・ポイント

「1994年かあ・・・おれが37才なぁ。」って。「という事は、僕らの子ども達がCDを買うタイミングやなあ。」って。「という事は、もしかしたら僕らが犯人かあ?」って。・・・何の事か分かりませんね。エンカやエンカ的なものが、年間ヒット曲から消えた年を調べてたのです。

 ここでいうエンカ的なものとは、演歌歌手が歌うその手の曲はもちろん、一見POPバンドやロックバンドのにおいを持っている人たちの曲でも、例えばダウンタウン・ブギウギ・バンドのように、演歌的メロディや情念を歌った人たちすべてをさしています。非常に微妙な、もはやセンスとしか言いようのないラインですが、あくまで僕の感じるエンカ的なニュアンスと思ってもらえればと思います。ああ、断っておきますが、僕は演歌が嫌いなのではありません。ヘタなロックバンドの歌よりもひばりさんたちの世界の方が雄弁なことがありますもん。ただ、前から気になっていたのです。「日本的なメロディが、いつから消えたのか」が。

 僕が調べたのは、オリコンの年間チャートではなく、もっと民間の認知度が高いサイト「ザ・20世紀」の、年ごとの流行り歌で見てみました。なので、厳密な話ではありません。だいたいいつ頃か、くらいに見てもらったらと思います。

 なぜ、そんな事をしたのかというと、特に90年代入ってから、はっきり言って「素晴らしい歌い手」が激減したから。80年代終わりまでは、確かにいたのです。そしてそれは、好き嫌い別にして、演歌を歌う人たちの中に沢山いたのです。で、彼らを支持する層が、まだ社会の中核にいて、確かな文化を形成していたのです。その文化は、いつ消えかけたのだろう。つまり、本当の意味での戦後歌謡文化はいつ終わったのだろうと、前から気になっていたんです。そして1994年にぶち当たったんです。

イノセントワールド(Mr. CHILDREN
<年間ヒットチャート1位> 第36回(1994年度)レコード大賞
ロマンスの神様広瀬香美)[作詞・作曲:広瀬香美
恋しさとせつなさと心強さと篠原涼子
空と君の間に(中島みゆき)[作詞・作曲:中島みゆき
Hello, my friend(松任谷由実)[作詞・作曲:松任谷由実

どうですか? 上の作品群。この中では篠原涼子のが、まーだ若干の演歌臭があるかな?マイナーメロディーと漂う雰囲気がとは思うものの、アレンジはユーロビートでね。 まあ、厳密な話とは思わないで読んでもらったら嬉しいんやけど。

この年は、面白いね、今からみると。インターネットのアメリカでのもの凄い盛り上がりが学者レヴェルから起こった年で、ネットスケープが会社になってる。WIN95の発売がアナウンスされ、ネットワークが謳われ出した年。日本でも、現代に繋がる新しい形の都市犯罪が散見され始めた。グリコ・森永、翌年はオウム心理教。まさに、ターニングポイント。旧い価値観が廃れ始め、新しい価値が台頭し始めた頃。たしか、この頃やったと思う。渋谷あたりのクラブ文化から、70’Sのブラックミュージックがリバイバルして、オリジナル・ラヴとかオザワケンジとかのソウル趣味が耳を惹いたのは。それにコムロ一派やね。

と、いったん背景を俯瞰してみて、言いたかった事に戻りましょう。うん。

ここにも沢山書いてきた事でもおわかりのとおり、僕や同世代の人たちは、昭和を抱えています。つまり、親の世代であった演歌文化を自分の中に抱えています。それは認めざるをえない。でも、70年当時に中学生から上であった人たちは、その文化をエスタブリッシュとして捉え、違う何かを作ろうとしてきたのです、音楽では。そして、大人になり、社会の現場に散らばり、家庭を持ったとき、僕らの子ども達は、演歌を知らない子ども達になった。彼らがCDを買う年齢になったとき、演歌はもうメディアにはなかった。当たり前や。メディアの現場のかなり上層部にまで、僕らの世代がいる状態になっていたんやからね。それがこの94年あたりの「市場環境」だったのでしょう。

うーん。迷っています。これ以上書いていくのは、かなりムツカシイ作業だから。何を考えているかというと、ここから先は、自分の中のエンカ的なものを時間をかけて消して行ったことが、果たして良かったのかという検証になり、ひいては、同じ事を大なり小なりやってきたこの国の歌文化全体の批判になるかも知れないと思ってね。

ここまで読んでくれた人にはお話しておきたいのですが、僕は現在(2005年)の日本のPOPシーンは、90年前後のそれと比べても、かなり健全だと思っています。やっと日本なりのPOPシーンが育って来た印象すらあります。あの薄汚いJ−POPとは別にね。ただね。最近、このエンカ的なものを筆頭に、ここまで来る過程でなくしたものも大きかった気がするのです。

今のPOP文化って、押しなべて「薄い」でしょ? 例えばお笑い芸人の基礎体力としての素養や見識は、アメリカやフランスのの同業者と比べると、無残なものがあるし、POP音楽の伝統性や連続性の無さもそうやし。文字文化はわかりませんが、なんだか文壇は鎖国が進んでいるような気がするし。例えばビートたけしのような人は、もう日本のPOP文化の中からは、熟成しないのではないかなと思うのです。それは、僕らがそれまでにあった文化を分断したことにも責任があるのかなあと思うのです。

山崎まさよしの影響

 最近、特にここ数年、アコギでソロライヴをやると、タイバンにくる若い男の子たちに共通な特徴があって。それが今回のテーマである「山崎まさよしの影響」なんよ。だいたいそんな子達は、まず編成がVO+アコギの子と、カホンジャンベの子というユニットで。リハのとき彼らを見ると、もう音を聞きたくなくなる。わかるもん、出てくる音が。

 で、大体、そこそこ歌えるし、上手いんよな。オリジナル歌ってるし。でも、出自がミエミエやから、結局ホンモノまでもいかん印象を、聞く前から持ってしまう。そんな子達は、必ずといっていいくらい、本番前にアンケートを配ってる。一度僕のところにも来たんで、申し訳ないけど本当の事を書いてしまって、困らせた事あった。「日本の人のマネしてると、ローカルなヒーローにもなれないですよー。」って。イヤーな奴やなーって思ったやろうな。

 山崎まさよしは全然悪くない。オリジナルや。最近は、ひょっとしたらこの人や後数人が、後に語られる事になるんちゃうかと思ってる。豊かな音楽性と楽しいパフォーマンス、なにより音楽への敬意とミュージシャンシップ。タミオ君やこの人が残っていくのは全然OKでしょ。 ギター上手いし、歌詞もいいし、ユーモア(大事!)があるし。ヴォーカルには好き嫌いはあるやろけど、そんなのビビたることで。スガシカオもいいと思ってたことあったけど、スケールが違うわ。悪いけど。音楽素養の深さにおいて。

 はっきり分かるんよ。ギターを2秒聞いただけでね。この人のバックグラウンドの深さがね。それも洋楽のルーツミュージックへの造詣の深さが。いい時期にいい大人にいいものを聞かせてもらったんやと思う。で、それを先入観なしに全部受け入れたんやろな。日本の環境では、例えばベックのようなミクスチャーは起こりにくいんやけど、この人は例外的にそうなった。それはこの人の性格のよさでもあるやろね。音楽に対しての素直さというか。

 ほら、海外のミュージシャンがラジオから流れる昔のバンドを聞いているのは耳タコなエピソードやけど、日本ではそんなラジオ局、つまり、ルーツをえんえんかける環境じゃないやん、ラジオが。だから人が頼りで、そんな人に恵まれたんよな、きっと。

 でも、その山崎君たちをそのままフォローするのは、どうなんや。たとえ入りクチはそうでも、彼が影響受けたガイジンに行かんかあ?って子達が多いって話ですわ。もう一枚ドアを開けてもらいたいなあ。豊かな音楽がそこに沢山あるのにねえ。

 でもなあ、いいにくいんよ、この子達。真面目でね。いい子でね。で、必ずどうでした?って聞いて来る。僕は「答えようがないわ。だって自分じゃないやん。」って言ってしまう事多いんよ。借りてきたフォーマットでちょっと変えただけにしか思えんのよな。山崎君は、それこそ勇気をもって今のスタイルを作ったと思うし、続けたんよ。それを拝借して「どうでした?」って聞くなよ。それはキミ、あまりに安易やで。ライヴハウスで歌うにはね。

番外編 山下達郎たちと74年

73年。はっぴいえんど解散コンサートに、噂のシュガーベイブが登場したというニュースは、いろんな雑誌を通して僕の耳に入ってきました。ただし、コーラス隊としての参加だったらしいってのも。で、どうしてもその音が聞きたくて、そのライヴが収められたレコードが出たときはすぐ買ったのでした。

 一聴して、「やった!」って思った。ビーチ・ボーイズとかのムードがある、すっごくバタ臭いコーラス。それも写真見たらまるっきりのロングヘアとTシャツ、ジーンズで、何本かのマイクを囲むようにして立った山下達郎たち。ワクワクした。来た、来た!僕が待ってたのはこんな人たちやったんやー!って思ったなあ。

 花のニッパチ(昭和28年生まれ)って、後に言われるようになる、1967年に14歳=中学3年の人たちは、恐らく日本のロックを直接変えた人たち。達郎さん、チャボ、キヨシロー、ユーミンたち、もっともっといるけど、その世代が今の日本のロックを創ったことは間違いが無い。中でも、その後の日本のPOPSの粗型は、山下達郎がくみ上げたといっても過言じゃない。

 もちろん、はっぴいのメンバーも凄い。特に大瀧さんと細野さんの音楽的素養は、確かに日本の各方面に影響を与えたと思う。でも、具体的な音楽の影響(曲調、歌詞、歌い方など)は、達郎さんのほうがはっきりと形を後進に伝えていると思います。だって、抗えない魅力があるもんね、彼の歌・曲・アレンジ・ギターには。

 その後、74年には不二家のチョコCMをはじめとして、シュガーベイブが次第に明らかになってくるに連れて、達郎さんの並外れたバタ臭さのある歌い方と、maj7系の曲作りが、それまでの日本のPOPとはっきり一線を画するものである事が分かってきました。そう。彼らでロックの世代が変わった。だから、僕らはすっごく期待してたのです。シュガーベイブに。

 そんななんで、75年6月に1STが出た瞬間、買いました。もう聴きもしなかった。このアルバムのショックは、レコード紹介のところにも少し書いたと思うのですが、とにかく色が違うのです、それまでの日本の音楽と。それは達郎さんの声と、妙子さんの声。それに村松さんのギターの音。あと、コーラス。これらのトーンが乾いているのです。それと曲作り。それまでの日本のロックに登場しなかった複雑なコードが、このアルバムには満載でした。当然、複雑なニュアンスも生まれます。僕は夢中になりました。とにかく、このアルバムと細野さんの「トロピカル・ダンディー」を、その夏は聞きまくったのでした。

 新しい世代のロックが現れる兆しは、シュガーと同時並行であったのです。それは、やっぱりニッパチの鈴木 茂のソロ「バンドワゴン」や、74年に出たバズのアルバム、それにやっぱり74年のユーミン「ミスリム」などの、ソウルのにおいや、やっぱりニッパチ・高中正義のミカバンドでのもの凄いグルーヴのギター、当時アマチュアだったセンチメンタル・シティ・ロマンスのセンス。これらが、同時多発的に74年の夏以降に、TVやライヴに出始めたのでした。

 彼等がどう新しかったのか。それは、それまでバタ臭いとされていたキャロルと比べればよく分かります。エーチャンのあの歌い方や歌詞の乗せ方もかっこよかったんですが、「きゃわいい あのこは ルイジアンナァ」という歌い方と根本的に「鳴り」が違う英語の発音が達郎さんにはあった。そう。それまでの日本のロックは、エーゴはカタカナでカタコトだったのです。それが、達郎さんたちは発音から気をつけていく歌い方と、POPSの中で声がどうしたら鳴るかを研究したうたい方を、僕らの前に置いていった。

 当時のティーンエイジャーは、その新しさに対して、飛びついた人と拒んだ人がいたことも、彼らの存在の大きさを証明する出来事でした。実際、僕は拾得でシュガーにブーイングが出たことを知ってます。それは今から思えば、新しいロック世代の登場に戸惑った、「ダンカイエイジ」の罵声であったと思います。いい悪いじゃ、なく。

 ニッパチ以降は、はっきりバックグラウンドが違うのです。東京オリンピック・高速道路・経済成長での豊かさ。例えば達郎さんは、11歳のときに東京のそんな姿を見ているために、細野さんや松本 隆さんのような、東京が変わる悲しみを感じずにいたのでしょう。それに、66年に中学2年でビートルズの来日を体感しているというのは、なにか決定的な気がします。みなさんもご存知のように、ティーンの1歳差というのは劇的なのです。そう。彼等以降の世代には、ビートルズは初めからいたのです。

 ただ、ニッパチ以降の人たちには、それまでの人たちにあった重要な感覚が欠落していったとも思います。それは、上質の批判精神。ロックのなかでももっとも重要な感覚であるユーモアが、彼等以降のミュージシャンには薄いように思うのです。「くすくす」って笑ってしまうような、存在自体が笑いを含む音楽が、彼ら以降どんどん消えていき、音の体裁は限りなく洋楽に近くなり、歌詞は限りなくエーゴに近い乗せられ方をし・・・。 つまり、体温が低くなった。

 未だに日本のロックを語るときに、巨大な足跡を残しながらあまり語られない達郎さん。それは、1つにはそんな音楽至上主義がもたらしたプラスティックな形があるからかなあとも、思ってしまうのです。 僕は大ファンなのですが。

番外編 玉置浩二の悔しさ

ほんとにねえ、悔しいんよ。売れてて、素晴らしい音楽作ってて、それでも多分「日本のロック」を語るときに漏れる人がいるわけです。その代表が安全地帯であり、玉置浩二であり、スターダスト・レヴューであり、スピッツなんよなあ。好き嫌いがあるにせよ、それは認めないと。

玉置浩二。この人の音楽的才能は凄いもんがありますよ。特に作曲能力とヴォーカルね。安全地帯のアルバム聞いたとき、ちょっと凹んだもんなあ。その思いは未だにあるわ。彼らの登場した時代はシンセ全盛期で、なーんでもケンバンが入って安いオトを鳴らしてたんやけど、「ワインレッドの心」にせよ、そこからの一連のヒットにせよ、実はケンバンは最小限で、メインはギター2本と歌や。その考え抜かれたアンサンブルに、まず脱帽。それに、あのヴォーカルね。歌詞は、まあ、その、歌謡曲やけどね。

たとえば、君が「ワインレッドの心」を思い浮かべる時、例の部分をイメージしませんか?「あのきぃえそぅでもぉえそぉな・・・」って所。僕はそう。それも、声そのものとタメのある歌い方。ハッキリ言ってこの時の玉置浩二はキライなんやけど、それでも思い浮かべる。これなんよな。ヴォーカルの凄さって。声の響きを焼き付けるチカラ。ヴォーカルの力が強いと、歌詞は記号になる。この点で、達郎さんやハナレグミに並ぶか、事によってはそれ以上のものを玉置浩二は持っていると、僕は思うのです。

最近の中では「メロディ」。あの歌はとんでもない。もし日本のPOP100曲ってのがあったら、その上位に入れないといけない。いい曲の見分け方は簡単で、隣のおっちゃんが歌ってもいい曲は光るもんなんです。あの曲はそんなものの極めつけ。そこに玉置のあのヴォーカルで行ったら、鬼に金棒キチガイに刃物。無敵。幾つも泣くところあるもんね。

そのメンタリティの高さで、ロックジャーナリズムは玉置をロックの文脈から離していると思うけど、それは大間違いや。だったら、キャロルキングやジェームステイラーを語るなっていいたいわね。それに、X−JAPANのあの稚拙な楽曲はロックなんかとも思うしね。なんていうかな、基準がね、評論家の好みでの「自分のロック観」やねんな。「ロックは○○だぜー!」っていう、子供じみた誇張というか。ハッキリ言って「玉置浩二をロックという自分が恥ずかしい」って位の音楽への愛情しかないわけで。

あの人の膨大な歌の記憶力と歌唱力、それにそれらへの愛情の深さは、とてもロック評論家たちのかなうものではありません。戦前の日本の歌謡曲から最近の歌まで、全部ギターで弾いて歌えるからなあ。勿論、ロックもR&Bも一部のジャズも。そこに加えて、奥さんと二人三脚での音楽製作の妥協のなさ。あの人は自分の音楽への愛情を、上手く語れないだけなのです。でも、ミュージシャンが上手くしゃべれることが必要でしょうか。音楽が良かったらええんちゃうの。

スタレビ。このバンドがメジャーシーンに出てこないのは、驚異的なライヴ本数をこなしているから。試しに、ライヴスケジュールをネットで検索してみて。メチャクチャやってるから。バンドのリーダー根本 要は、無類の音楽好き。無節操なくらい、ありとあらゆるジャンルの音楽を自分に蓄え、膨大な曲を作り、歌っています。それに、このバンドのコーラスワークは、あの達郎さんが「あいつらはPOPコーラスの日本一」と言わしめたくらいの水準です。デビュー曲はニューオーリンズR&Bがベースの曲で、ちょっとヒットした「なんとか伝説」って曲は、当時のイギリスのフォーマットな曲で。要するに何でもできるわけや。それに、テッテー的に楽しませるライヴ、ね。でも、ロック史からは漏れるでしょう。ただ評論家が取り上げないというだけでね。

スピッツも、そんなところにいそうなバンドやね。あのバンドをきちんと評価できるかどうかが、僕は日本のロックジャーナリズムの命運を分けると思っててね。えらいクールなバンド、スピッツ。95年の「ロビンソン」で聞ける「ちょっとだけ先にいるスタンス」を、以来10年間維持してきつつ展開する、日本人の記憶の奥にある音の断片をくすぐるアレンジや、あのハイトーンのヴォーカルは、全部計算の上のものです。特にあのアレンジでのビートルズやバーズ、U2をどこかで連想するギターの使い方。あれは、ある世代以上のPOPSファンには条件反射があると思う。そして、それがわかるように、わざとビートをダサくしているところ。さすが元マライアの笹路さん。ちょっとしたアレンジの極意を、メンバーに与えたのでしょう。

とにかく、これらの人・バンドは、「音楽の職人たち」です。自分の作った音を、ただひたすら演奏する。それでいいはずなんですが、どうもこの国の「紙媒体」では、それだけじゃダメみたいですね。ちょっと悪ぶって、歌詞に内実のないアホで、下品なおしゃれで、米英の音楽のパクリで、ちょっと下手で、しゃべれる。そんなのを「これがロックだー。」って言うのは、ガキだけでええやんけ。50前後で業界にいるくせにそんなのを支持している奴らは、去れ。勉強が足らん。そいつらは、いい音楽を支持する人たちの愛情を曇らせるだけや。いらん。

1995−7 

 何度目かの萌芽

 久しぶりの年代別を書こうと思います。長く年代別記述をサボってたのは、いくつかの理由があるのですが、96年以降は、僕もネットやバンドやその他で忙しかったので、時間が経たないと見えてこないことが多かったことが一番大きな理由です。これを書いているのは05年の2月ですから、やっぱり時代を俯瞰するためには10年くらいの時間が必要だということですね。

 さて、前回は、ロックの世界の世代交代と、70年代までの音楽の遺産を上手く消化した「ロックの子供達」の登場を、ウルフルズを例にとって話しました。ウルフルズ、やはりここ数年の活動全般を見ていても、いいバンドです。ロックがロックンロールと呼ばれた時代から持っている初期衝動を失わず、見事に自分たちの作品に残しているもんね。

 今回は、もう少しこの90年代中期を見ておこうと思います。それは、10年後の現在から見て、もしかするとこの94年から97年というのは、その後のシーンを作り上げるような人・出来事・モノが出てきた時期ではなかったかという思いがあるからです。

 まず、人。斉藤和義が93年、山崎まさよしが95年、スガシカオが97年に「メジャー」デビューしています。ということは、それに至るライヴを行えるシーンが93年位には関東でもあったということですね。この3人が際立っているのは、セルフ・プロデュースのチカラが相当高いという点です。斉藤和義も多分そうだと思うけれども、後者2人は間違いなくドラムまで含む全楽器の演奏イメージまでもって曲を作っているし、実際、初期の段階から自宅録音でマスタリング一歩手前まで仕上げてCDにしているもんね。簡単に言うと、「音楽の基礎力が相当高い状態でのデビュー」です。

 また、3人とも過去の日本の音楽を、ライヴハウスレベルで沢山体験していたし、そこからの影響を素直に自身の音楽にも出していましたから、僕らのような70’Sを実体験したようなかつての音楽ファンにも「ん?」と引っかかることが多かったのです。実際、僕は斉藤和義の何曲かに、かつての高山 巌さん(ソックリ!)を思うし、山崎まさよしはセロリのシングルヴァージョン聴いた時、「なんでリチャード・ティーがケンバン弾いてるんや」って思うくらいスタッフな音でびっくりしたし。

 それとUAの登場です。デビュー曲はよくFMで聞くともなく聴いていたのです。その時から、こんな曲が当時の若い子達に支持されるようなシーンなんやなあと漠然と思っていたのですね。つまり、フリッパーズ・ギターの二人あたりが中心になって種をまいたクラブ文化が、東京や大阪を中心に成熟してきていて、そのナカミはレゲエ・HIPHOPスタイルを中心にする流れと、70’S前半の黒人音楽のグルーヴを中心にする流れがあることが、UAやサクラたちが、シーンの表面に出てくることで見えてきたのでした。

 それにSMAP。彼らの特大ヒット連発期だった95年〜97年、その作品をサポートしていたのがなんとNYCの一流ミュージシャンで、バックアップミュージシャンだけでCDを出し、それすらも売れるという状況も生まれました。彼らは、70年代に一世を風靡したスタジオマンたちで、その頃に音楽をしっかり聴いていた人たちにとっては、まさに夢のようなメンバーでしたから、世代を超えて売れたわけです。

 これらの流れから、僕のような当時30歳代後半〜40代前半の世代が、もう一度日本の音楽シーンに興味を持つ現象が、はっきりと生まれたのです。わかりやすく言うと、山崎まさよしやスマップやUAサウンドは、かつての「僕らのサウンド」であったのです。

 さらに。この90年代中ごろの面白さは、ストリートにもありました。僕は詳しくはないのですが、HIPHOP文化は80年代中ごろに近田春夫いとうせいこうが日本語で始めて種をまいたのですが、その種は綿々と引き継がれ、高木 完・藤原ヒロシやスチャラダ・パー、電気グルーヴたちの数々の実験で、この頃にはラップは日本語でも音楽表現の一つになっていました。そこに、アメリカでのミクスチャー・ロックの爆発がかぶって、日本ではどちらかというとテクノよりだったHIPHOPが、レッチリのようなバンド+ラップ表現を行うバンドを、一気に生むことになりました。その動きの総体が、2000年以降のドラゴンアッシュケツメイシ、またライズたちになっていくのです。

 他方では、例えば80年代終盤からの長渕剛のコンサート会場では、会場前でアコギをもってナガブチのレパートリーを熱唱するファンたちが沢山居たのですが、自然発生的に、彼らが路上で歌い始めます。90年代初め、これも東京や大阪の都市部から始まっていきました。最初は、稚拙な演奏と誰かのコピーで始める人たちが多かったのですが、やがてオリジナルで達者なプレイを聞かせるバンドやシンガーがここから出てきます。また、東京には伝統的に「ホコ天」でのライヴがありましたから、そのノウハウで、バンドもストリートで始める人たちが出てきます。そしてそこから、「ゆず」や「こぶくろ」が登場することにつながっていきます。この流れはまた、日本全国の駅前をあるくかつてのフォーク少年・少女だった人たちに、再びギターをつかませるきっかけにもなりました。そう。ストリートフォークもまた、70年代音楽ファンが現在の音楽への興味をもつきっかけになっていき、98年くらいからのアコギ販売台数の急増につながっていきます。

 90年代前半は、マスメディア的には「コムロの時代」でした。80年代前半にTMネットワークで登場した時から、彼はデジタルビートを駆使して、自宅で音楽を作っていき、80年代中盤の渡辺美里をプロデュースし大成功を収めたあたりから、独自のスタンスで一大音楽コングロマリットを形成したことは、ご存知でしょう。彼の音楽は、かつて「ユーロビート」と呼ばれたディスコビートを下敷きに、ある程度ブラックな匂いを歌えるシンガーを配して、自身の曲を歌わせるものでした。このフォーマットは、オキナワのある歌謡教室に通っていた子供達を有名にするのに最適でした。その教室では、ブラックミュージックでの歌唱とダンス指導をしていたのです。そしてそこから、沢山のシンガーがコムロ・フォーマットにのって登場しました。

 このフォーマットの影響はとても大きなものがありました。ひとつは、ブラックの伝統的なうたい方を日本人がまねて使った曲がばかばかしくヒットしたために、コムロファミリーの歌い方が一つのスタンダードになったということです。05年現在でもそのスタンダードは生きていて、へんな節回しをつかって日本語を歌う若い子たちがどんどん出てきていますもんね。 また、70年代アメリカのディスコブームの時のように、細かいニュアンスの柔軟なビートを持った音楽が、一時的にせよ端に追いやられたこともあります。どんなグループも、キカイで作られたビートにのって出てくるのがコムロ流でしたから、同時期に水面下で動いていたヒップな音楽が出てくるのに少し時間がかかったような感じもあります。

 コムロ・プロダクトが、現在のシーンに残したものは、でも、いいこともあります。ひとつはスタイル・フリーということ。つまり、バンドを伴ってライヴしなくてもいいということであったり、ダンサー+シンガーでのユニット形式であったり、CD製作も自宅での録音でもいいということであったり。もう一つは、これは非常に大きい功績だと思うのですが、音楽土壌としてのオキナワを紹介したこと。アムロさんたちが世に出たことで、オキナワの音楽土壌の豊かさを知らしめたことは、オキナワにとっても、地元で音楽している人たちの自信につながり、以降、色んなスタイルのミュージシャンがここから輩出されることになりますもんね。

 ふう。こうやって書いてみて、僕自身わかったのは、この90年代中盤ってのは、やっぱり現在のシーンを作るきっかけとなる出来事がつぎつぎおこっていたのでした。前もどこかで書いたのですが、例えば90年前後のヒット曲のサウンドと、80年のヒット曲のそれを比べてもらうと良くわかるのですが、何のつながりもないのですね、それまでの日本では。ところが、この90年代中盤のヒットは、05年のそれと並べても、土台がそんな違わないのです。言い換えれば、この辺から日本のPOPは、いわゆるJ-POPと呼ばれる独自の進化を始めた気がします。進化、かどうかは良くわかりませんが。

実は、まだ書きたいことがあるのですが、また時間のあるときに追記しますね。

 村上”ポンタ”秀一

昨日、数時間かけて、図書館にあった「自暴自伝ー村上”ポンタ”秀一」を興奮のうちに読みました。ポンタさん自らが語る生い立ちからこれまでのキャリア、そして今後の抱負。71年から34年間、日本の音楽をぶっとい柱になって支えてきたドラマーの、素晴らしい半生記です。

 大ドラマー・ポンタさん。彼や大村憲司さんが70年代初頭に登場してからの日本の音楽産業は、大きく変わりました。それは、まさに業界の世代交代とも言える規模での巨大な変化になり、それ以降の音楽製作は全く新しい意識と作業工程で行われることになったのです。

 上限を細野さん、下限を達郎さんとする世代が、それまでとはあらゆる点で価値観が違ったのだと、この10年ほどで痛感しています。その世代は、少なくとも音楽を享受することに関しては特殊なのです。その特殊性においては、あらゆる社会現象から説明しなければいけないのですが、際立った背景だけをここで羅列してみると・・・。


・日本被占領期間 1945〜1952 空前のジャズ、カントリーブーム
・1956 プレスリーがメジャー大ヒット→細野さん8歳
・1960 池田隼人「所得倍増計画」 高度経済成長の始まり サラリーマン初任給 12000円
      (1970年の初任給は50000円) →細野さん13歳 ポンタさん9歳
      安保闘争での大学生の死
・1964 ビートルズアメリカ上陸、東京オリンピック、海外渡航の復活で留学生が欧米に
      ベトナムの映像が全世界に 反戦運動の激化
      →細野さん17歳、ポンタさん13歳 
・1966 ビートルズ  日本公演    →細野さん19歳、達郎さん13歳 
・1967 衛星中継放送のTVでの実用開始
・1968 18歳から20歳の交通事故死激増、免許改正に
・1969 国際反戦デーでの、学生の新宿駅占拠 

参考WEB : http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/honbun.php3?kid=216&bflg=1&serial=13164


 とにかく、「今までになかったワクワクするモノ」が、世の中に毎日加わっていくわけです。それは自家用車・学校のプール・洗濯機・休日・個人用のラジオ・テレビ・高速道路・海外留学・西洋の「ほんものの」お菓子など、大人のワクワクも巻き込んで生活の中に加わっていく、と。受け入れる大人たちも、戦争がどうのこうのといっているよりも、下手したら毎月上がって行く所得のほうが気になるわけです。日本の60年代は、こんな気分が蔓延していたと思います。

 そこに持ってきて、義務教育の時間数は、日本史上最高になります。つまり、60年代に少年少女であった人たちは、親の戦争への反省からの平和主義・民主主義と、復興の延長からの楽観的未来観、それに高い教育を与えられた、いままで日本にいなかったタイプの人たちです。こう考えると 北山 修が「戦争を知らない子供達」と自分達の世代を呼んだ事は良くわかります。世代を区切りたかったのでしょうね。

 さらに、メディアの発達が世の中の劇的な変化をすぐに伝えられるほどには発達していなかったことや、外貨がまだまだ強いことで海外にはそうそうカンタンに渡れないことが、この世代の人たち独自の「想像力=創造力」をもたらします。

 この世代の人たちの楽観主義は、結果だけをみれば、時々あきれることがあるくらいです。情熱からの行動であれば、あとは現地で勉強すれば何とかなる が前提の、無謀な行動がいたるところであったように思う。たとえば、中津川に行くのにヒッチハイクで女の子1人で動いたり、大学を3日で辞めたり、世界放浪に出て帰ってこなかったり、大学を占拠したり・・・。自分たちが最高だ、と思っているその振る舞いは、なにもロックの世界だけじゃなく、当時の若者に共通した特質でしょう。

 ちなみに、僕が中学2、3年生だった頃=1971年には、世の中を変えてしまうほどのものは、ほとんど出揃っていました。リアルタイムでワクワクしたモノというのは、その後はパーソナル・コンピューターまで出てこないように思います。それくらい、彼等の世代の日本の変化は激しく、輝いていた。「未来はあかるい。何でもできるし、手に入る。」・・・そんな気分が国にあっても不思議じゃない。

 「僕が知ってる日本のロック」に頻繁に登場する70年代の人たちは、ほぼ全員この世代の人です。そして、この世代のミュージシャンだけが、本当の意味で「世界レベル」を見たのです。それは、「練習すればいつか世界に届く」と信じたり、「世界を知るには、その現場にとびこんで修行する」といった行動をとったりできる楽観性を、情報が少ない分持てたということです。そして、彼らは本当に練習して、世界に通用するミュージシャンになったのです。

・・・・ずーっとここまで、ポンタさんの事を書かずにポンタさんの世代を語っていました。でも、ポンタさんや大村憲司さんを理解するには、世代の特殊性は絶対に知っておかないと、なぜ彼らが物凄い練習をこなしたのか分からないのです。彼らは何になりたかったのか。それは、「世界に通用するミュージシャン」です。ポンタさんたちはこの言葉を、物凄い重みを持って感じていたと言うことですね。POPの全ジャンルにおいて、どんな時代の音楽であろうが叩けるドラマーを目指したことが、この本を読むと良くわかります。
「世界でやろうぜ!」とケンジさんに言われて、ここまで深く捉えられるイメージ力の高さ。これこそが、この世代の最良の部分なんだと、ポンタさんも言っています。

 ここで小出しにするには、あまりにももったいないエピソードが満載です。この本を一通り読むと、特に70年代日本の先端ミュージシャン達の起こした変革の大きさや、バンドマン(ドラマー)として歌をどう捉えるのか、歌手とはどんな人たちなのかなど、いくつもの大きなテーマに対するポンタさんならではの答がありますが、何よりも大きく浮き上がってくるのは、ポンタさんや憲司さん、松木常秀さんたちの「音楽屋」としてのココロザシの高さです。

 音楽を愛する人、ぜひ読んでみてください。ガラ悪いけど、ここには真実がたくさんあるから。