前から気になってたし、そんなんあったら嬉しいなあということが現実になりました。ウルフルズ・トータスのソロアルバム。グレイトR&Bのカバーであると。 いやあ、これはウレシイです。出来とかはどうでもいいねん。トータスがそんな企画でソロ出すのがう…
黎明期:1966−76くらいここで言う黎明期とは、僕の音楽の黎明期でもあるわけですから、1966から1976年と考えてもらっていいかも知れません。この期間に、アメリカではPAシステムの大変革があり、現在用いられてるものの原型が出来、メーカー…
82年から84年にかけて、関西はどんな感じだったかな。 僕が覚えてるのは、ベテランたちの自然な、ライヴハウスを中心にした活動と、バンドの自然な離合集散でした。もともと狭い範囲でたくさんのミュージシャンがいたのですから、人のつながりは広く強いも…
2002年のフォーク・クルセダース(2) たいしたもんですね、ホント。フォークルの活動全般が。すっごい大人のプロジェクトって気がする。はっきり言って日本の音楽産業のレベルはとっくに凌駕し、イギリス・アメリカなどのPOP音楽が立派に仕事として成立し…
実は彼の初期になると思うのですが、大好きでした。これはFM802で聴いて。あれっていつやったかな? とにかく、ある日の夜、いつものように自宅に帰る車で、ラジオを聴いてたら、リフとワウワウギターが聞こえ始め、モロにウーリッツアーという会社のエ…
どうです?この2枚のポスター。素晴らしいと思いませんか?これは今年の春一番コンサートポスターです。作品の著作権を侵害する気はさらさらありません。ただ素晴らしい作品だったので、みんなに知ってもらいたくてもってきました。 まず、このロケーション…
ジュリーがTVで歌ってます。懐かしい歌。太ったなあ。切れも悪くなって。でも、ええか。この人の率いるバンド「タイガース」がなかったら、日本のロックはまた違った様相を呈していたと思いますもんね。リスペクト。 グループ・サウンズは、面白い現象でした…
君は、音楽を聴いていろんな気持ちを作ったり感じたりしていることだとおもいます。ただ、最近の日本の音楽には、残念ながら「祈り」や「願い」を実感から歌う歌が本当に少なくなっていました。ただのコトバ遊びの中での「LOVE」とか「明日」とかは、僕…
新しい意識で新しい音楽を作る−−前回、80年代に入ってからそういう人たちが面白くなってきたことを書きました。どうやってそんな人たちが生まれたのか。これには、シンセの飛躍的な進化と、自宅で録音できる器材の充実が、大きな力を貸しています。 日本での…
ガロ。知ってますか、このバンド。パーソンズのレコード紹介でも書いたのですが、この人たちの1STは、大ショックでした。今では「学生街の喫茶店」だけがみんなの記憶に残っていると思うのですが、そんなつまらないバンドではなかったことは、この1ST…
前回は新しい10年というサブタイトルで書き始めたと思います。今思っても,実際80年は,その後の日本のロックに大きな影響を持っていく現象の芽吹きが随所にあった年でした。前回とは違う側面で80年を振り返ってみると,はっきりと「暮らしのなかのPO…
チャカ。 1980年、大阪にちょっといいバンドがあるで、と。その名はアフリカ。 たまたま弟のバンドが出ていたコンテストの関西大会決勝で、そのバンドを見ました。圧倒的なパワーとゴージャスなステ−ジングで、P−FUNK系のファンクをどっかーんって…
その話を聞いたのは、たしか1979年の11月。かつてのバンドメンバーで、当時イベンターになっていたT君からでした。「RCが、盛り上がってるらしいで。あのRCが。こんど、屋根裏4日間をやるらしい。」へーえ。どんな感じでやってるのかな・・・。…
帰宅時間だ。駐車場に向かう。 寒いなあ。フェンスのゲートを開けて、車のキーを回す。 ・・・と。 802が「・・・・バナナホールの20周年イベントライヴ、今日は○日目のkeison・増田俊郎・斎藤誠という、男くさいラインアップの模様をお伝えします。・…
VOL13 1979この年、その後の音楽を大きく変えた2つの事件がありました。まずはYMOの浮上でしょう。何といっても前年からブームになっていたインヴェーダー・ゲームのキャラのような、サイバーで生活感がないメンバーの「見せかけ」と、テクノ・ポップ。僕…
なんにも面白いことがなかった73年の秋の午後、僕と何人かの友達は、高校近くの喫茶店にいました。そのころもう廃れかけてたジュークボックスがそこにはあって、でももう誰もそれを使わなくて、有線で流れているサンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」…
うーん。この1978年というのは、フツーにやってたら僕は大学卒業の年だったのですが、いろいろなことが重なって、卒業はしませんでした。まあ、簡単に言うと音楽で食べていきたいという気持ちが固まって、いろいろとはじめた年です。この年は、シーンが…
このところ、なんか日本人の歌を真剣に聞くことって少なかったのです。ほら、歌詞を真剣に感じてしまう「重たさ」ってあるじゃないですか。あれから、今は遠くにいたいなあって気分だったから。それに、ラジオになかなか好きな歌い手が出てこなかったのもあ…
この年は、自分にとって大きな転機があった年なので、あまり俯瞰した状況をかけるとは思えませんが、できるだけ大きな動きを視野にれつつ、はじめてみようと思います。 「何か違う空気」が入ってきたのは、たぶん夏前に知り合った地元京都のバンドのやつらか…
あのー、最近、ブランニューなものが音楽の世界から出なくなって久しいなあ、と思ってます。例えばビート。2拍4拍 にアクセントのある音楽は、下手すればもう100年くらい続いているけど、なかなか消えようとしません。例えば楽器。これも80年代初頭の…
76年といえば、第二次オイルショック。それと、記憶が正しければ、田中角栄のロッキード事件からの逮捕。これらの事件で、73年のオイルショックやアメリカのウォーターゲイトからの、経済の停滞・政治家への不信がより強くなり、ただでさえ連帯感が薄まって…
75年をもう少し続けます。6月から夏までにその後の日本のPOPを大きく変えていくアルバムが数枚出ました。 まずはシュガーベイブ。これは、レコード紹介のところにも書いているように、1曲目のSHOWが始まったところからのコードや歌が、それまでの日本の…
70年代には、アーティストに惚れて採算度外視で自分の持っている装備やノウハウを惜しげもなく投入するPA屋サンが、特に地方には多かったのでした。代表は、上田正樹さんに突っ込んでいったMOBという大阪の集団。藤井兄弟が主催していたこの集団の、お…
ここからは多分に自分の経験からみた話が多くなると思います。 僕は当時18歳で、大学生として京都にいました。いろいろなところで書いてきた体験は、すべてここから始まったと思うくらい、自分の音楽体験そのものがまったく新しい次元に入りました。 当時…
さっきから繰り返して聴いているのです。ちょっと前にNHK「トップランナー」であった、この二人の共演ライヴ。 ご存知の方も多いと思うのですが、矢野顕子さんは、70年代の細野さんの、ソロ・アーティストとしての大ファンです。ずっと前から彼の曲を一人…
かなり後から知ったことも含めて、74年当時の京都や地方都市はどんなだったかを想像してみたいと思います。60年代後半のカウンター・カルチャーのメッカ・アメリカのウェストコーストのヒッピー達の間では、早くから京都は「旅の中継点」であったようです。…
といっても、今日のTVで、ROCK IN JAPAN2001やったかな、あれのセットで見たんですが。やっぱりあいつはかっこいいと思いました。僕の記憶ちがいでなければ、ドラムは古くはカルメンマキ&OZ・最近では佐野元春のバンドでたたいてる古田…
そろそろ73年に行きましょうか。冒頭からなんですが、この年はホンマ自分的には面白くなかった年でね。まず、アメリカのロックに新味がなくなったし、ヒット曲もなんか面白くなくなってきていた。エルトン・ジョンの「ダニエル」ってあったでしょう?僕、…
いつの頃からはもう覚えていないのですが、たしか80年代のはじめくらいだと思います。僕は、細野晴臣さんというアーティストを、一生追いつづけようと決めたのでした。そう、自覚的に決心したのでした。それは、その当時までの彼の足跡や、その当時のリア…
72年ごろの、新しい音楽の情報は、「ニュー・ミュージック・マガジン」と「新譜ジャーナル」と「GUTS」という雑誌でした。ところが、和歌山の本屋さんには他の2冊は割とどこでも売ってても、「ニュー・ミュージック・マガジン」は宮井の本店に毎月5冊し…